66.突然の来襲
事態の悪化に伴う空気の変化は、その後、早々にリンに襲いかかった。
研修日誌の振り返り指導を終えてドクター・ヴァン・マーネンの個室を出たリンを待っていたのは、相変わらずの冷たい視線と態度だったのである。
概ね大部分の人間は同情的で、中には『災難だったね』と声を掛けてくれる者もいたのは救いだった。
興味本位で『本当につき合ってるの?』と聞いてくる者はまだ良い方で、少数ではあるが無言で蔑むような視線を送ってきたり、無視したり、酷い者になると、わざと連絡を怠ったりして仕事に支障を来すようないやがらせをしてくる者もいた。
一方、リンはと言えばそんなスタッフ達に対して、今まで通りの態度を決して崩さないように接した。悲しいことだが、小さい頃から数々の差別や誹謗中傷を乗り越えてきたリンには、こうした事態は決して目新しいものではないのだった。こういう時、態度を変えるとかえって噂に信憑性を与えてしまうのだ。誠心誠意普段となんら変わらない態度を貫く。こうした根も葉もない噂や誹謗中傷をはねつけるには、そうするしかない。こうした対応は冷静な判断の結果であると同時に、リンの矜持であり意地でもあった。
しかし、さすがのリンも一部の患者からの心ない言葉は正直堪えた。
「あのバクスターって人、大丈夫なんですか?不正で試験を通ってきたんでしょう?」
「ズルをして医者になった人に診てもらいたくないなぁ~」
「心配だから私らの注射や処置からは外してもらえませんかね?」
そんなふうに他のドクターやナース達に訴える患者や患者の家族達の声を聞いたリンを、酷い脱力感が襲った。しかしだからといって仕事場でへたり込むわけにもいかない。リンはなんとか気持ちを立て直すと足早にその場を去った。
その日の午後開かれた、各科リーダー医師の定例ミーティングでは、リン・バクスターの処遇について議題が挙がった。幸いどの医師もリンの仕事ぶりを良く知っており、あのタブロイド紙の内容が嘘八百であることに異議を唱える者はいなかった。そして、本当につき合っていることのかどうかに関わらず、ディスカストス侯爵というタブロイド紙にとっては格好の餌食である貴族のゴシップに、なんらかの理由で巻き添えをくったのだろう、との推測が大方の意見を占めていた。
しかし、やはりここにも差別主義者は混じっていて、そうしたドクター達が口を揃えて言うには『何故自分たちが、こんな騒動を起こしている研修医の尻ぬぐいをしなければならないのか?迷惑がかかっているのだから、リン・バクスターにはここを出ていってもらうのが良いのではないか?』とのことだったのである。
それに対しては、ドクター・ヴァン・マーネンが終始一貫してリンを擁護し、そうした差別主義者であるドクター達を宥めた。
「人の噂も七十五日。そのうち収束します。バクスターの診察を拒否している患者はほんの数人ですし、業務に大した影響は出ていません。
なにより私たちは、医師としての根本的な適性として、懸命に努力しているのにも関わらず差別を受けている後輩を守ってやるべきじゃないでしょうか?バクスターに対する不信感を口にする患者に対しては、ナースやスタッフが説明するよりも、ドクターが話をする方がずっと説得力があります。
皆さんにわかっていただきたいのは、今、一番辛い思いをしているのはバクスター本人だということです。それなのに、彼女はいつもと変わらず、懸命に笑顔で業務に就いている。
どうか、皆さん、あの将来有望な研修医が無事ここを巣立っていけるまで、あと十ヶ月、暖かい態度で見守り、指導してやってもらえないでしょうか?お願いします!」
そう言ってドクター・ヴァン・マーネンは深々と頭を下げた。
しかし、その様子に感じ入ってくれる医師がいる反面、どうにも納得できない様子の医師もいたのだった。
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こうして長く、辛い一日がようやく終わった時、リンはへとへとに疲れ果てていた。まるで古い絨毯のように、脳が毛羽立ち、すり切れて、みすぼらしく消耗しているのを感じた。何も考えずにロッカールームで着替えると、棒のようになった両足をどうにか動かしながら、医局の玄関を出た。
頭がぼーっとして、なにも考えられそうにない。張りつめ続けた神経が、後少しで焼き切れそうになっているのを感じた。
(早く寮に帰って、なにか食べなくちゃ。そうしてゆっくりとお風呂に浸かろう……。そうだ、孤児院から送ってもらったハーブバスソルトを入れよう。そして早く眠ろう……)
頭の中で気持ちの良いバスタイムを想像して自分を励ましつつ、足を踏み出す。そんな想像が効を奏してか、少しだけ元気が出て、リンは茫洋とした表情で寮に向かって歩き出した。
と、その時だった。くたくたに疲労しきったリンを、眩しいフラッシュが襲ったのは。
「キャ!」
突然の閃光に、何事かと思わず反射的に顔を庇って両手をかざしたリンに向かって、驚くほど近い距離から、ICレコーダーが差し出された。
「リン・バクスターさんですよね?デイリーサンです!ディスカストス侯爵との一件について、お話聞かせていただいてよろしいでしょうか?」
いかにもタブロイドの記者らしい男が、顔を背けようとするリンの口元めがけてICレコーダーを突きつけてくる。それと同時に、これでもか!というほど、リンの顔めがけてバシャバシャと繰り返しフラッシュが焚かれたのだった。
北方に位置するため、10月半ばだというのにすっかり晩秋の気配を漂わせている、ここ、ギースの一足早い日暮れの濃闇の中で、その真っ白な光は辺りを鋭く照らし出した。
「ディスカストス侯爵から金銭的援助を受けているのは本当ですか?
それを使って数々の試験を突破したというのは?
ねぇ、バクスターさん、そういうズルをすることに抵抗はないんですか?今、どういったお気持ちですか?
一言でいいですから、コメントをお願いしますよ!」
立て続けに投げかけられる、ひどく一方的で悪意に満ちた質問を聞いて、リンの頭にカっと血が上った。今日一日かけて削り取られた精神への、最後のとどめとばかりに投げかけられた言葉の数々に、リンの頭のどこかで堪忍袋の緒が切れた。疲れ果てた脳にアドレナリンのもたらす虚構の元気と興奮が駆け抜ける。
ところが反論しようと唾を飲み込み、息を吸った次の瞬間にリンの脳裏に鋭くフラッシュバックしたのは、ドクター・ヴァン・マーネンの慈愛に満ちた笑みであり、院長の真摯な表情であり、また、今日一日、自分を励まし続けてくれた心優しい同僚達の顔だった。
(いけない!ここで短気を起こしてはダメ!相手にしてはダメ!)
リンはすんでのところで踏みとどまった。握りしめた拳のせいで、掌に爪が食い込む。カメラから顔を背け、腕で顔を隠しながら、歩調を速めた。
(所詮相手はタブロイドの記者だもの。何を言ってもいくらでも歪曲して記事を捏造されてしまうのが関の山だわ。だったら、やはり相手にしないでここを離れるしかない。それが最善策だわ)
一瞬のうちにそう思い至ったリンは、疲れ果てた身体に最後の力を振り絞って、記者とカメラマンの隙間を抜け、走り去ろうとした。
しかし敵もさるもの、まるでサッカーのディフェンダーのような素早さでリンの行く手を阻むと、再び叫んだ。
「コメントできないということは、記事の内容に同意した、ってことですか?そうなんですか?!リン・バクスターさん!!ねぇ、そうなんでしょう?そうでなければ、一言、コメントをお願いしますよぉ!」
そこにはリンを怒らせ、なんとかコメントを取ろうとする、姑息な意図が感じられた。
(やっぱりそうなんだ。何を言ってもねじ曲げて捉えられるだけ。ここは逃げるのが最善策だ)
リンは三度目の正直とばかりに前の2人の男の隙をついて、無言で駆けだした。
「バクスターさん!待って!バクスターさん!コメントが取れるまで、何度でも来ますよ!また来ますからねー!」
記者が後ろから叫んでいる。リンは必死で走った。幸い追いかけては来ないようだ。走って走って病院の寮の玄関に駆け込み、震える指で暗証番号を押した。
開錠のビープ音が鳴りやまないうちに急いでドアを閉める。ガチャンという施錠の音がした瞬間、安堵のあまりリンはその場にへなへなと座り込んでしまった。
ナース達のシフトの時間帯とずれているので、照明も必要最低限に落とされた玄関ロビーは驚くほど静かだ。みな食事を済ませて、各々の個室にいるのだろう。
しばらくの間荒い呼吸を整えるためにじっとしていたリンだったが、ようやく立ち上がって身体を支えると、そのまま目を閉じ、大きく息をついたのだった。




