62.研修医生活の始まり
口頭試問を受け、合格してから6ヶ月後ーー。リンは見事アザリスの医師認定国家試験にパスして、医師免許を取得することができた。
更にその2週間後には、弱冠21歳というウィリアムズ・カレッジの卒業年齢記録を塗り替えて、史上最年少での卒業も果たした。
アザリスでは、国家試験に合格してもすぐに医師としては働くことができない。そこから2年間の研修医期間を経ねばならないのである。この間指導した医師達に加えて大学の指導教官から定期的に何回かの口頭試問を受け続けなければならない。
そして最終的には担当教授を含む、研修医期間を指導されたすべての医師から推薦状にサインをもらい、担当省庁に提出をして認定されれば、晴れて一人前の医者になれる、ということなのだった。
ただし、一人でもサインをしてくれない指導医がいれば、サインがもらえるまで指導を受け続けなければならない。
それなので、免許を取得してから実際に認定医師として働けるようになるまでの期間には個人差があるのが普通であり、中には研修医を5年も10年も続けてやっとサインをもらい、認定を受けた、という者も多くいた。
この研修医としての2年間はリンの医師になるためのステップのまさに正念場であり、同時に、最終段階の始まりといえた。
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ウィリアムズ・カレッジの寮を出て、リンがその身を寄せたのは、高級別荘地・ギースにある総合病院のドクター・ヴァン・マーネンの元だった。
2年前、ミリアムに半ば強引に招待され、滞在していた時、狭心症で倒れたホルト中将に適切な救急処置をして助けたことをきっかけに、ホルト中将の担当医だったドクター・ヴァン・マーネンとの交流が生まれたのである。そしてこの2年間、忙しい合間を縫って、ドクター・ヴァン・マーネンとやりとりを続けてきたリンなのだった。
ドクター・ヴァン・マーネンは白と銀の混じり合った髪に青い目をした初老の女医で、専門は心臓外科。元々は北欧生まれだが、結婚を機にアザリスに移り住んだのだという。しかし、アザリスに来て間もなくその配偶者とは離婚してしまい、その後は独身のまま、思う存分仕事とそれに伴う研究に打ち込む日々なのだと、笑って言った。
救急救命医を目指すリンは、まずはこの背の高い、「北の魔女」のような風貌をした女医から、心臓疾患に関する全てを吸収しようと考えた。
ギースにあるその病院は、夏も冬もそれなりに忙しいが、所詮首都デリースやその衛星都市の忙しさとは比べものにならない程度だという。リンは比較的のんびり、じっくりと、内容の濃い研修を受けることができるだろう、とほくそ笑んだのだった。
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当初、リンが病院付属の看護師用の寮に入ると聞いた時、アクセルは強く反対した。そして折角あるのだから、と、ディスカストス侯爵家の別荘を使うように言ったのだった。
しかし、別荘は病院から少し離れている為不便だし、第一リンは車も免許も持っていない。夏はともかく、オフシーズンになってしまう冬から春にかけて、バスの本数も激減してしまって余計に不便なのだ。そうした理由に断ろうとすると、アクセルは当然のように言った。
『大丈夫、車も運転手もこちらで用意する。そうだ!身の回りの面倒を見てくれる家政婦も必要だな?』
そんなアクセルの言い分にリンはすっかり呆れ果て、二人は軽い口論になった。そして最後はほとんど喧嘩のようになりながら、ようやくアクセルを説得することが出来、当初の予定通り寮住まいを始めたのだった。
しかし、愛情過多な麗しのディスカストス侯爵の『愛情攻撃』は倦むことを知らず、あれほど忙しい身であるにも関わらず、週末が来るたびにせっせとギースに通って来た。それは二人きりの逢瀬であることも、グッドマンやミリアムやリチャードが同伴して、にぎやかな邂逅になることもあった。
その一方で、さすがに研修とそれに伴う定期口頭試問の前はアクセルの来訪を断ることにしていたリンだったが、そんな時は必ずと言っていいほど美味しそうな物をギュウギュウ詰めにした荷物が届くのだった。
ところで、レ・バン湖のバカンス以来、届き始めたアクセルのメールはまだ続いていた。
以前と違っているのは、リンも返信するようになったことだった。アクセルのまるで『俳句』のような文章に思わず笑みを零しながら、リンもいつも一言だけ返事を送った。また、アクセルほどこまめに写真をつけることはしなかったが、花や野良猫など、被写体になるようなものを見つけるたびに、アクセルの事を想い出し、写真を撮って送るようにした。
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そうして研修が1年終わった時、アクセル達はギースの別荘を訪れ、ゆうに3週間を過ごした。
リンは研修医という身分であるのでバカンスを取ることはできなかった。ひどく残念がりながら、
『自分たちがいる時くらい、別荘から病院に通ったらいい』
と言い張るミリアムとアクセルのリクエストをなんとか断って、研修と臨床、そして研究と論文執筆の待つ、静かな寮生活にリンは戻った。
しかし、そんなリンにとって誤算だったのは、アクセルがリンの勤務が終わるのを、病院の駐車場で待ち伏せするようになったことだった。侯爵閣下は言った。
『折角こんなに近くにいるのに、一緒に夕食を食べられないなんて、耐えられない。』
当初は断ろうとしたリンだったが、結局最後はアクセルの悲しそうな顔に絆されて、毎日夕食を共に摂る羽目になった。アクセルの粘り勝ちである。
ところが、話はそれで終わらない。
男性としての魅力に溢れた、見目麗しきディスカストス侯爵を一目見た女性は皆、まるでアイドルを見たような気分になってしまうらしく、すぐに噂になってしまった。
『あのハンサムな人は一体誰?』
『誰を待っているの?』
『私、タブロイドのセレブ欄で見たことあるかも?!』
『どうやら今マーネン先生の所に来てる研修医の恋人らしいわよ?』
『なによ、それー!?生意気ー!貴族とつき合ってる、ってわけ?』
『むかつくー!』
そうしてあっという間に周囲が冷たい雰囲気に変わってしまったことを重く受け止めたリンは、なんとかアクセルを説得して病院に来るのをやめてもらった。無論、グッドマンにも説得に協力してもらったのは言うまでもない。
そんなこんなでリンのギースにおける研修医生活の2年目が始まろうとしていた。




