61.侯爵閣下、涙にくれる
アクセルは溢れ出る涙を堪えることができなかった。こんなに嬉しく、また、こんなに神様に感謝する気持ちになったのは生まれて初めてのことでもあった。数々のビジネスシーンで修羅場を潜り、莫大な財産を持つ億万長者であるだけでなく、アザリス社交界きっての美丈夫と呼ばれている男は、ただただ溢れ出る涙を止めることが出来ずに、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくった。
リンに顔を見られたくないあまり天を仰いで顔を隠して、右手を両目にあて涙を塞き止めようとムダな努力をしながら、アクセルは繰り返し繰り返し言った。
「良かった・・・!良かった・・・!リン・・・!リン・・・!ああ、神様、感謝します・・・!」
アクセルの瞳からは、まるで滝のように涙が後から後から湧き出し、押さえている手のひらを突破しながら頬を伝って、最後はその男らしい顎の先端から首筋にいくつもの筋を作って襟元へと吸い込まれていった。
「閣下・・・。」
自分以上に喜び、涙を流しているアクセルに愛しさがこみ上げたリンは、再びアクセルをギュウ!っと抱きしめた。
一方、アクセルは溢れる涙を止めようと必死で頑張った。リンの前で泣いている、しかも嗚咽を漏らしながら泣きじゃくっている。そのことが恥ずかしくてたまらず、目をごしごしと擦ったが、涙は一向に止まらなのだった。擦ったせいで目からほお骨のあたりがヒリヒリする。この期に及んで、スーツのポケットに完璧にプレスされた、オーガニックでハイスレッドなコットンハンカチーフが入っていることを思いだし、取り出して目にあてた。しかし、最高の吸水性を誇る最上級のハンカチでもって吸い取っても押さえても、依然として涙は止まってくれないのだった。
というのも、アクセルの脳裏にこの半年強の間リンがどれだけ頑張っていたか、その様子ばかりが次から次へと蘇り、涙を誘ったからなのである。
そんなわけで、何をどうしても、どうにもこうにも涙は止まりそうになかった。
そんなアクセルの様子を見て、リンは想った。
(ああ、愛するということはこういう事なんだわ。哀しみは半分に、喜びは2倍になる。)
リンはアクセルの深い深い愛情に感謝の気持ちを込めて、その暖かな胸に顔を押し当て、繰り返し、繰り返し礼の言葉を紡いだ。
「ありがとうございます、閣下。ありがとう・・・!」
そう繰り返すリンの優しい優しい声に、益々、男泣きが止まらないアクセルなのだった。
ところでーー、そんな二人の姿を医学部棟の陰から、そっと見つめる人影が二つ。
言わずと知れたディスカストス侯爵家令嬢ミリアム・ヘスターと、その忠実なる僕、筆頭家令執事グッドマンの二人である。
口頭試問本番の今日、リンの合格を信じて疑わなかったミリアム・アクセル・グッドマンの3人は、試験が終わった後は、どこか美味しいレストランに繰り出して祝杯を上げる計画を立てた。無論、リンには秘密で。
リンを送り出したあと、ミリアムは兄と執事と合流して、いつもの小面会室で口頭試問とその合格発表の連絡を、今か今かと待っていたのだった。
ところがなかなか連絡が来ない。試問の結果を待っているのであれば、そうそう連絡をつけるのも躊躇われた為、3人はそれなりに談笑しながらただ待っていることしか出来ずにいたのだった。 その頃、リンは、試験結果の決定を待たされている最中だったわけだが、その後合格と言われ喜び勇んで帰ろうとした矢先に、研究室のコーヒーテーブルの上に、アクセルから押しつけられたスマートフォンを置き忘れたことに気付いてそれを取りに戻った。そこで、運悪く、差別主義者の司祭が難癖をつけて自分を不合格にしようとしていた事実を立ち聞きしてしまい、大きなショックを受けた、と、そういうわけなのである。
そうこうするうちに、リンを心配し、待ちきれなくなったアクセルが『迎えに行く』と面会棟を飛び出して行ってからすでに小一時間。依然として戻らない2人に業を煮やしたミリアムとグッドマンもまた、二人揃って医学部棟までリンとアクセルの様子を見に来たのだった。
そこで、二人はアクセルとリンのほぼ一部始終を目撃することになったのである。
「ううう~!良かったわね、お兄様!良かった良かった!
・・・って、いやだわ、私ったら、もしかしてこれって出歯亀ってやつかしら?」
ハンカチを目に当て、感涙にむせっていたミリアムが、はたと気付いたように言った。
「正しく・・・。コホン、まぁ、これくらいは、よろしゅうございましょう?
なによりあのように素直に泣く旦那様を拝見できただけで、私は本望でございますよ。」
「あら?お兄様だって子供のころは泣いたでしょう?」
「いいえ、アクセル様は小さい頃から泣かないお子さまでございました。
そして先代の旦那様と奥様がお隠れになり、ディスカストス家当主の座を継いでからは、一層泣かない人間になってしまわれたーー。」
「でも別に泣かないなら泣かないで、別に良いじゃないの?悲しいことがなかったってことでしょ?悪い事じゃあないわよね?」
「人間は嬉しい時にも泣くものですよ?お嬢様。今の旦那様のように。
それに、『泣く』というのは一種の毒出しなんでございますよ。旦那様はご両親を亡くされてからというもの、ディスカストス侯爵家当主として、心の弱さをさらけ出すことも、辛さを吐き出すことも出来にくくなってしまわれた。それが問題だったのです。
それがあのように手放しで涙を流されて、しかも、人前でおいおいと泣いていらっしゃる。
旦那様はバクスター様という大切な方を、弱さをさらけ出せると思える、安心して泣ける場所を見つけられたのでございます。
これは大きな僥倖ではございませんか?」
「そうね・・・、その通りだわ、ええ・・・。--お兄様、良かったわね!!リンも!
ああ、イヤだわグッドマン、ますます泣けて来ちゃう!」
「・・・お嬢様、私もでございます・・・。」
そう言いながら胸元から真っ白なハンカチを取りだし、目頭を押さえる初老の執事を見て、ミリアムが言った。
「まああ!グッドマン!私あなたが泣いてるの見るの初めてかも!驚きすぎて、涙が止まっちゃったわ!」
「・・・なんともはや・・・。・・・私とて鬼ではございません。涙くらい流します。」
少しむっとして言うグッドマンの目からもすっかり涙が乾いてしまっている。
「あら、失礼、おほほほほ。」
「まったく・・・。さ、そろそろ一足先に面会室に戻りましょう。」
「あら、なんで?このまま二人に声を掛けて4人で一緒に戻りましょうよ?」
グッドマンが動きを止めた。ミリアムらしいといえばこれ以上ないくらいのミリアムらしさ満点のその申し出に、心底呆れるような視線を投げつつ、グッドマンは言った。
「・・・いくらなんでもあの状態のお二人に声をかけられるのは、酷というものです。特に旦那様には・・・。ここは私の言うことを聞いて、4人で帰るのは諦めてくださいませ。」
「そう?よく分からないけど・・・。まぁ、そうかもね。」
ミリアムは生来の気負いの無さで、適当な相槌を打った。何事にもそうこだわりを持たないのがミリアムの良い所であり、悪い所でもある。
「あなたの言うことを聞いて、間違っていたことなんてないものね、グッドマン。」
ミリアムが聞き分けよくこれまた生来の素直さを発揮してそう言うと、グッドマンは得心の笑顔でこっくりと満足気に肯いた。
「さ、参りましょう、お早く。」
かくして『アクセルの恋路を応援する会』会長の有能な執事と、強力なバックアップ作戦を遂行し、見事ミッションの成功を導いた無邪気な妹は、そっとその場を後にした。
やがて泣き続けるアクセルに困り果てたリンが、その顔中に繰り返し優しいキスを降らせたのをきっかけに(孤児院ではよく泣きやまない子供にそうしていたリンである)、アクセルの涙はようやく止まった。
ところが今度はそのリンのキスの雨のあまりの気持ちよさに、うっとりとしたアクセルが未だ涙のとまらないフリをして、またもやしばらくの時が流れた。
しかし、そんなアクセルが顎先を掠めたリンの唇の柔らかさに、思わず身体を震わせたのを、薄着と風邪を気遣ったリンに促され、二人がようやくその場を離れたのは、それから30分ほども経った、すっかり辺りが夕闇に包まれた後のことであった。
なんとかコートを返そうとするリンを、断固とした態度で拒んだアクセルは、首に巻いていたシルク混のカシミヤマフラーまでリンにグルグルと巻き付けた。想像していた通りのアクセルの過保護ぶりにクスクスと笑いをこぼしていると、アクセルがリンの肩をぐいと引き寄せた。恥ずかしいのと嬉しいのとで少し俯きながらも、リンは抱かれた側の腕をアクセルのウェストにまわして、なにより雄弁な無言の意思表示をした。
ジャケット1枚の軽装をものともしないほど上気した顔に浮かれた笑顔を浮かべたアクセルは、ウェストにまわされたリンの手に自分の手を重ねると、互いの指をしっかりと絡めて握り、ニッコリと笑った。
「じゃ、行こうか?」
「はい。」
そうして、ようやく気持ちを確かめ合った二人は、互いの瞳の中にある何かを見留め合い、喜びのムードに酔いながら、待っている人達がいる場所へと足を踏み出したのだった。




