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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
59/152

59.愛の前に人は無力

 リンは呆然として、たった今自分の上に落ちてきた"啓示"とも呼べるひらめきを吟味しようとして、ありったけの冷静さをかき集めようとした。冷静さと思慮と分別はいつだって、リンの強い味方であった。ところが、考えてみれば、リンがそれらを総動員してなにか問題を解決する時は、いつだって誰か「他人の」問題であって、自身の問題について考えたことはなかったことに、はたと気付いたリンである。

 

(愛している、愛してしまった・・・それはわかった。でも・・・、じゃあどうしたらいいの?)


自分の気持ちに気付いたからこその『どうしたらいいのかわからない』という想いのせいで真っ白になってしまったリンの頭の中に、突然シスター・マーガレットの言葉が蘇った。


『リン、愛は惜しみなく奪い、惜しみなく与えるものです。

 愛の前に人は無力、人の考えは為す術を持ち得ません。

 愛に出会ったその時、人の取り得る行動はただ一つ。己の心に従うこと。ただそれだけなのです。』


(己の心に従うことーー。己の心・・・私の心・・・?)


 と、その時、アクセルが立ち上がったかと思うと、胸に顔を埋めて抱きついていたリンの身体を抱きかかえて立ち上がらせると、覆い被さるように、強く強く抱きしめ返してきた。それまで冷たいたたきにしゃがみ込んで、リンを介抱していたアクセルは、抱きついてきたリンの行動に勇気を得、改めてリンを抱きしめたのだった。

 驚くほど暖かい、熱いくらいの大きな右手がリンの首から後頭部を支え、そして逞しい左手がウェストの当たりに当てられて、ギュっと抱き寄せられた時、リンに訪れたのは驚くほどの安らぎだった。

 女性にしては上背のあるリンだが、アクセルとはゆうに20センチの身長差がある。そんなアクセルが背中を丸め、リンのこめかみにその頬を押し当てて大きく息をつきながら、リンを抱く腕に益々力を込めた。

 抱かれているリンはといえば、アクセルの体温をとても心地よく感じながら、うっとりと目を閉じた。そして、リンはシスター・マーガレットの教え通りの行動に出たのだったが、それはまったくもってリン自身の理性の預かり知らぬ行動であり、まさに『愛の前に人は無力』とも言うべき行動だった。

 リン・バクスターはディスカストス侯爵、アクセル・ギルバートの腕のなかで身じろぎをした。『この抱擁が終わってしまうのか・・・』と無念さを感じながら、自分の腕の中にすっぽりと納まっているリンが、いまだかつて見たことのない慕わしさを込めた瞳で、そっと自分の瞳を振り仰ぎ、覗き込んでいるのを見て、アクセルの鼓動が跳ね上がった。

 そればかりではなかった。

 なんと、アクセルが恋してやまないこの、10以上年下の女性は、両手を延べるとアクセルの頬にそっとその手をあてたのだった。突然のスキンシップに、驚愕に目を瞠るアクセルの表情を見て、リンは思わず


(閣下ったら・・・こんなところも少年みたい。)


と、笑ってしまった。と、そんなリンのこの上ない美しい微笑みに応えるように、アクセルもまた、心の中で燃え上がる愛の命じるまま行動したのである。

 アクセルは自分の頬に添えられたリンの両手を握り返すと、そっとひっくり返し、その左手の手のひらに唇を押し当てた。


「リン・・・ああ、リン・・・。」


ただたおやかなだけの白い手と違い、リンの手には、小さい頃から苦労してきた年輪のようなものが感じられた。子供達の面倒を見、ハーブガーデンの手入れをし、バザーで売るための石けんを作る手。人生とそれに付随する困難というドアを一つ一つ努力しながら、自分の力で、自分自身の手で開けてきた、そんな手に頬ずりすれば、そこからリンの持つ得も言われぬ美しい精神が感じられるような気がする。握りしめたリンの手のひらに、何度か唇を押し当てながら、アクセルは(うな)るようにリンの名前を呼んだ。

 その声音に込められた愛情は、リンの胸の辺りにジンワリとした熱を産んだ。そのあまりの心地よさにリンは震えた。そして、それが極上の笑顔となって、リンの目元と口元に現れた時ーー。アクセルは矢も楯もたまらず、リンの両頬をその手のひらで包み込み半ば強引に引き寄せたのだった。


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