57.怒れる伯爵と天然執事
「ミズ・バクスターの合格、よろしゅうございましたね、旦那様。」
暑すぎるくらいふんだんに暖房を効かせた教授室でドクター・ブルームを待っていたのは、有能かつ口うるさい、ブルーム伯爵家の筆頭家令、ケントだった。
「去年のモン・ペリエ以来ですからね、是非ミズ・バクスターにご挨拶を、と考えていたのですが。さっさと帰宅させておしまいになるとは、相変わらず意地の悪い・・・。」
そう言いながら、薫り高いブルー・マウンテンのカップをコーヒーテーブルに置いた。
ドクター・ブルームはアザリス人としては珍しく、コーヒー党である。知る人ぞ知る最高級のブルーマウンテンを信頼できるルートから生豆で購い、ブルーム伯爵家お抱えの一流バリスタによって絶妙の加減に焙煎させる。そしてその豆を執事であるミスター・ケントがカレッジまで持参し、丁寧に粉に挽いては至高の一杯を供するのが、毎週の恒例行事なのだった。
去年の夏、自分の執事が自分に無断で『代理プロポーズ』などと言う突拍子もない行動を取ったことに怒ったドクター・ブルームは、ケントをリンと決して再び会わせまい、と誓った。
ところが今日はたまたまケントのコーヒー豆配送日に当たった為、ドクター・ブルームはケントにリンの在室を知らせもせず、こうして教授室に閉じ込めていたのである。
「どうぞ。」
差し出されたコーヒーカップは、オリエンタル柄のリアルアンティークだ。ここ、ウィリアムズ・カレッジで最も古い建物である医学部棟の佇まいにピッタリのクラシカルな逸品である。昔々、熱いコーヒーをソーサーにあけて飲んでいた頃の名残のデザインで、深目で手馴染みの良いボーンチャイナのソーサーが、彼の旦那様はいたくお気に入りなのであった。
ウィリアムズ・カレッジはこの風変わりな貴族の御曹司、ドクター・ブルームが終の棲家と決めただけのことがある、世捨て人には格好の場所だった。適度に田舎、適度に僻地。しかも、ブルーム伯爵家の領地からは遠く離れているので、うるさく言ってくる親戚も少ない。ドクター・ブルームはこの環境に非常に満足していた。たった一つの難といえば、目の前にいるこの口うるさい執事が、コーヒー豆を持ってくるたびに、結婚についてうるさく言ってくることだが、コーヒーを美味しく淹れるテクニック"だけ"は捨てがたい。ドクター・ブルームはそんなヒドイ理由で、鬱陶しいケントの定期的な来訪だけは、許していた。
一方、ブルーム伯爵家に堅い忠誠を誓っている、昔気質のケントの方はといえば、この埃臭い象牙の塔から彼の大切なブルーム伯爵家の世嗣をなんとか連れ出したい、とあの手この手を繰り広げてきたが、今のところ惨敗を喫しているというわけなのだった。
「ところで随分と時間のかかるものなのですね、口頭試問の協議とは。」
大好きなブルーマウンテンの薫りでさえ消すことの出来ない深い皺を眉間に刻んだまま黙りこくるドクター・ブルームに向かって、ミスター・ケントが話を向けた。
「こんなに時間がかかるのは、ごくごく稀だ。差別主義者でサイコパスのクソ司祭が紛れ込んでいたせいだ。まったく、忌々しい!」
いつもクール・・・を通り越していささか感情に乏しく見受けられるドクター・ブルームが、珍しく感情を露わにして吐き捨てた。
「それは、どういう・・・?」
「うちのチェスターヴシャーの教区に押しつけられた例のイカれたボンボン司祭さ。ほら、首都の中央祭祀教会の枢機卿一族出身で、失言に失言を重ねて追い出された、あの。」
「ああ!あの!?
私も一度お会いしましたが、確かにどこか変な方でしたね。一方的に喋って一方的に去っていった、という印象しかありませんが--。一体全体、どうしてあんな人物が口頭試問に招聘されたのですか?」
ケントは驚きのあまり、彼の大切な旦那様の為に持参したバスケットからお茶請けを取り出す手を止め、言った。
「そう、あり得ない。誰かが動いた、と考えた方がまだ自然な気がするくらいだ。まぁ、それはないだろうがな。直前になって来るはずだった司祭が体調不良で倒れたらしい。その代役にあんな人物を推挙するなんて、あそこの宗派もヤキがまわったな。
とにかく、本当に、純粋な偶然だ。バクスターにとっては至極厄介だったがな。」
ドクター・ブルームは吐き捨てるように言った。
「絶対に偶然なのですか?」
「・・・カレッジ中枢に働きかけることのできる人物が、絶対にいないとは言わん。
しかし、もしそうだとしても、バクスターの担当試問官に例のクソ司祭を割り当てることは不可能なんだ。試問官も学生も、互いに指名はできない。招聘された試問官は、学生へランダムに割り振られるんだからな。しかも、それは試問当日の朝、学院長の引くクジで決められるという念の入れようだ。」
「それはそれは・・・。」
ケントもまた、その眉を下げながら、リンへの同情を隠さない。
「・・・。」
ドクター・ブルームはむっつりとコーヒーカップに口をつけた。
「ということは、その司祭がミズ・バクスターが孤児であるということを理由に、不合格にしようとした、と。そして、他の2名の試問官がそれに抗う為に協議が紛糾した、と。そういうわけなのですね?」
「・・・。」
ドクター・ブルームは更にむっつりと表情を歪ませて、カップをソーサーに戻すと、彼の有能な執事に2杯目のブルー・マウンテンを要求した。
「なんということ!なんとお気の毒なミズ・バクスター!!
彼女が孤児であることは、彼女のせいではありませんのに、そのような酷い差別的待遇を受けられるとは・・・。
そもそもなぜそんな人物が試問官に指名されたのですか?このカレッジは差別を取り払い、すべての学生に学内での平等を保証していることが売りの場所なのではないですか?」
ケントはテキパキと手を動かしながら、大仰に言った。
ケントの嘆き節は、そのままドクター・ブルームの心中の忠実なリフレインである。ドクター・ブルームとて、ウィリアムズ・カレッジがそうしたポリシーを掲げているからこそ、ここに奉職することに決めたのである。貴族であるドクター・ブルームにとっては、リンとはまた逆の意味で身分を勘案しなければならない場というのは、鬱陶しいのである。例えそれが建前上だけであったとしても、その身分の平等を謳っているウィリアムズ・カレッジは、理想的な職場なのであった。
そんなウィリアムズ・カレッジであるのに、今回リンは理不尽な差別に遭遇してしまった。しかも非常に重要な局面で。これは決してあってはならないことである。ドクター・ブルームにとって、リンが教えがいのある非常に優秀な愛弟子であることを差し引いても、断じて許すことはできない。これはウィリアムズ・カレッジ、ひいてはドクター・ブルームのアイデンティティに関わる問題なのだった。
「もうこの先は、決してこんな事、許さない。
明日朝一番に学長に直談判して、口頭試問官の選定には今まで以上に細心の注意を払うためのシステムを導入するよう進言し、必ず実現してもらうつもりだ。
万が一受け入れられない場合は、俺はこのカレッジを去る。
もう二度と、俺の教え子が・・・いや、どんな学生もこんなくだらないことで正当な評価を受けられないなんてことが起こらないようにする。
こんなバカバカしいこと、金輪際、許すことはできない。」
ブルーム伯爵・ルシアン=コンラッドは珍しく感情的になり、その白磁の頬をうっすらと紅潮させていた。
そんなドクター・ブルームの様子を眺めながら、ケントは嬉しそうに2杯目のブルー・マウンテンの入ったコーヒーカップを置いた。コーヒーカップの隣に添えたのは、彼の大切な旦那様の大好物である、ケーキの乗ったデザートプレートである。今日のデザートはコニャック漬けマロングラッセを贅沢に使ったモンブランだった。
「旦那様、旦那様がそのように興奮するなんぞ、ますますお珍しいことでございますねぇ。ミズ・バクスターをそれだけ大切に思っている証拠でございますね、きっと!!」
「・・・黙れ、ケント。俺はバクスターだから怒っているのではない。ああいうクソみたいな差別主義者が懸命に生きている人間の行く手に立ち塞がることに怒ってるんだ。」
「なんと!旦那様、この期に及んで、このケントにまで本心を明かしてくださらないとは、なんとまぁ、水くさい!」
「なっ・・・!?俺は隠し事なんてしておらんぞ!黙れ!」
「ほっほっほ!照れなくてもよろしゅうございます、旦那様。」
「こいつ・・・!!俺は照れてなんかない!」
「ふっふっふ!はいはい、照れていないのでございますね。このケントには解っておりますとも!」
「・・・!」
事ここに及んで、ようやくドクター・ブルームはケントに真面目に対応することを辞めた。なにせ相手は生まれた時から自分を知っている、老練極まりない古狸なのだ。何をどう言っても、結局は自分の都合の良いようにしか解釈しないし、どうせ勝手な論理で動く。その最たるものがモン・ペリエでリン・バクスターに行った『代理プロポーズ』ではないか!
(思いこみの激しいこいつには、何を言ってもムダなのが、余計に腹が立つ!)
ドクター・ブルームは腹立ち紛れにモンブランを大きく切って口に入れた。
「ーーー!!」
(なんだ?!このモンブランは!?美味い・・・。こんなモンブランは初めてだ。)
ドクター・ブルームは知らなかった。最近ケントが優秀なルッジア人パティシエールをスカウトしたことを。そして、そのスカウトの決め手となったのが、彼女の最も得意とするこのモンブランであったことを。
「美味しゅうございましょう?」
あまりの美味しさにあっという間に食べ終わってしまった旦那様に、当たり前のように2個目のケーキを差し出しながら、ミスター・ケントがにっこり(にんまり?)と笑った。
(俺は、この、したり顔で得意げに肯くクソ執事が、とにかく気にくわない!!)
なんだかすっかり完敗したような気分でドクター・ブルームは2個目のケーキを受け取り、ひたすらもぐもぐと口を動かした。いつの間にか、熱々に淹れ直された3杯目のブルーマウンテンが目の前に置かれていることも、殊更、敗北感を煽った。
そしてーー。
そんなブルーム伯爵家主従の丁々発止が繰り広げられている、暖かな室内とドア一枚隔てた場所では、リンが寒さと絶望に立ちつくしていたのであるーーー。




