56.立ち塞がる司祭
それから3時間。リンの試問の合否協議は紛糾した。件の司祭が最後までリンの合格に頷かない姿勢を貫いたからである。口頭試問は基本的に全員一致の合格判定が求められる。つまり、一人でも不合格と判定する試問官がいれば、それは不合格となるのである。
リンにとって不幸だったのは、試問官の中に差別主義者が混じってしまったことだった。しかし学生から試問官は指名できないのである。こうした点も、この口頭試問が難関であると言われる所以であろう。
一目でリンを気に入らないと判じ、その後の試問を突破されたことにいたくプライドを傷つけられた司祭は、その立場とは完全に裏腹の行動に出た。狭量で浅薄な人物特有の頑固さとねばり強さで、司祭はリンの応答の一つ一つを論い、否定したのだった。
そんな司祭の心を変えようと、老女医がリンの出自を口にしたことが司祭の差別根性に火を点けてしまったのは大きな誤算だった。リンが孤児院出身であることを知った司祭は、それまでに増して、態度を硬化させたからだった。まさかそんなことになるとは思っても見なかった老女医は、自分の不用心な一言が事態を悪化させたことに気付くやいなや、徹底抗戦を誓い、そしてそれを行動に移したのだった。
彼女ともう一人、ウィリアムズ・カレッジの若き教授は共同戦線を張り、医師らしい厳密さで、司祭の論理の破綻を突いては、司祭が決定的に不合格判定を出そうとする度に、協議そのものを何度も何度も振り出しに戻すことでそれに対抗した。リンの才能と人となり、そしてそのずば抜けた優秀さと共存している限りない暖かみ、医師としてなにより大切なその心持ちを見抜いた2人は、依怙地になった司祭が、やがて根負けしてくれることを期待した。
ところが、2対1の状態になっても尚、司祭は粘った。他二人の試問官は内心、目の前の司祭に『責任能力無し』との診断書を書きたい気分にさせられた。司祭の様子はどう見ても常識の範疇を越えている。同じ事を何度も何度も大声で繰り返し語り、その合間合間に自分が如何に優秀で高貴な人間であるかを主張する。そんな特権階級の自分が、リンの生殺与奪を握るのは当然だと言わんばかりである。口頭試問の場なのだから、試問を受ける側のリンが回答しなければ始まらない。それは当然のことであるのに、それが気に入らない、とあからさまに非難の言葉を口にして、不合格という判断を下すことになんの疑問も持っていないその様子は、明らかに常軌を逸していた。
自分で喋っているうちにどんどん感情が高ぶり、興奮してきた司祭は、まったく論理的な話が通じなくばかりではなく、自分が喋ったこともまったく覚えていられないらしく、ただただ頭に浮かぶ事を喋り散らかした。
そんな司祭の様子を見ながら、他の2人の試問官はほとほと呆れ果てた。どうしてこんな人間が試問官に混じっているのか?しかも、自分と同じ場にいるとは・・・。教授と老女医は自らの不運を感じつつ、狂ったように喋り続けている、司祭を眺めた。
これでは確かに、周囲の人間がどんなに失言について忠告したとしても、自分の発言のどこがマズかったのかわからないだろう。上流階級に属する家族は隠していたかもしれないが、様子を見る限りでは、明らかに人格障害である。自己評価が低いせいで、他者から優秀と評される人間を無条件に攻撃する。そうすることでしか、平常の生活を送るだけの精神状態を保てないのである。人を苛めることでしか、自分の足下を確認できない。攻撃することでしか、自分の価値をアピールできない、そういう類の人間である。無論、試問官としての適性はまったく無い。
それなのに、この司祭はこの場に呼ばれてしまった。なんの間違いか、名誉あるウィリアムズ・カレッジ医師養成コースの卒業試験における口頭試問に、宗教関係者代表として招聘されてしまったのである。事実、あの健気で凛々しい、小さな女子医学生の合否はこの、頭のおかしい差別主義者を説き伏せなければ実現しない。とにかく、リンの将来の為には、粘って粘って、この司祭を根負けさせなければならない。2人の試問官の気持ちは一つだった。二人はお互いに眼を合わせ、深く頷きあった。
その後、2人は根気強く司祭が「不合格!」と言い出しそうになるたびにその出鼻を挫き続け、合否判定について、何十回目かの「振り出しに戻る」を繰り返した。そうしてさすがに老いた女医が疲れにため息を漏らした、その時、突然ドアがノックされた。協議の最中に入室を求めるなど、異例のことなのだろう。立会人としてその下らない協議につき合わされて、ウンザリした顔をした大学職員が応じると、それはリンの担当教授であるブルーム伯爵、ルシアン・コンラッドが立っていたのだった。
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「おお、ブルーム伯爵ではないですか!ご無沙汰しております。」
司祭が舌なめずりするかのように、入室してきたドクター・ブルームに駆け寄った。そんな司祭の汗でテカテカと光る顔と、そこに浮かぶ媚諂う表情を冷たく一瞥すると、ドクター・ブルームは言葉を発した。
「それで?私の学生は合格したのだろうか?それとも不合格なのだろうか?それを聞きに来たのだが。」
そしてーー。全てが終わったのだった。
その幕引きのあっけなさは、その後、ウィリアムズ・カレッジの語り草になった。それくらいの、バカバカしさだったと言える。司祭はドクター・ブルームを知っていた。白衣を着て背の高い、顰め面をした肌の白いその男性が、紛れもない貴族階級であり、なおかつ、司祭の勤める教区が属する村の領主であり、同時に多額の寄付を行っている、ということが決めてになったのだった。
それまで3時間余、ひたすらリンの不合格を主張してきた司祭は、リンがドクター・ブルームの教え子であると聞いた途端、それを翻した。そのあまりの豹変ぶりに、リンの合格のために尽力してくれた2人の試問官は呆れ果て、どっと疲労を感じた。それでも、結果的にはリンが理不尽な不合格を逃れられたということで、大いに安堵したのだった。
試問官達と別れたドクター・ブルームは、足早に研究室に向かった。無論、この良い結果を、一刻も早く彼の優秀な弟子学生に伝える為である。
ノックもせずにそのドアをあけると、入り口脇の小さな応接セットの古ぼけたソファに、リンはぼんやりと座っていた。
「バクスター。」
そう声をかけると、リンは弾かれたように立ち上がり、ドクター・ブルームを無言で見つめた。
「先生・・・。」
随分待たされた。こんなに待たされるとは、聞いていなかった。この3時間というもの、ドクドクと激しい鼓動をうち続けたせいで、リンもリンの心臓も、もうクタクタだった。
「合格だ、リン。」
唐突にドクター・ブルームが言った。
「・・・本当に?」
信じられない気持ちでリンが聞き返す。
「なんだ、私が嘘を言ってどうする?」
そんなリンの返答に、本気でムッとしながらドクター・ブルームが言い返した。
「ああ、神様!!」
リンは思わず、両手で顔を覆った。次の瞬間、喉の奥から深い深いため息がこみ上げた。
不思議と涙は出なかった。その代わり、全身をむずむずするような、なんともいえない興奮が駆けめぐるのを感じた。脳内にアドレナリンが大量に分泌され、シナプスがスパークしているような気がする。バチバチと火花を散らして、化学的な電流が脳のそこかしこで興奮を伝達しているイメージがありありと浮かぶ。そうして何秒か経った時、リンの中にようやく合格の実感がふつふつと沸き上がってきた。この6ヶ月間、死ぬほど勉強してきた。打ち込んできた。それが正しく結実した喜びに、リンは大声で叫びだしたい衝動に駆られた。
「先生、ありがとうございました!」
真っ赤な顔をして、喜びに打ち震えながら、リンは最敬礼のお辞儀をした。
リンの身体中を幸福感が満たした。小さい頃からの目標(医師になること)、その大きなステップを自分は登ったのだ!リンの目には興奮のあまりうっすらと涙の膜がかかり、手足はまるで酸欠になったかのようにビリビリと痺れた。無理もない。この6ヶ月というもの、極度の緊張と集中、そして自分を律する精神状態で今まで猛勉強の日々を乗り切ってきたのだから。
「さ、バクスター。この大金星を知らせたい人がいるんじゃないのか?早くそうしたまえ。」
ドクター・ブルームが促す。
「はい、先生。」
「正式な合格証の授与は一週間後だ。そして、その更に一週間後の卒業式で卒業証明書の授与が行われる。そうすれば晴れて君は、医師免許の国家試験の受験資格を手にすることになる。」
ドクター・ブルームが彼らしい、素っ気ない言い方で今後の予定を確認した。しかし、興奮で身体を震わせているリンには、丁度良かった。それくらい『なんでもないこと』のように告げられる方が、この場にへなへなと座り込まずに済む。
「まずは休め。合格証の授与は私の同席で、学長から行われる予定だ。詳しい日時やスケジュールは後でメールする。だから、これから一週間は十分英気を養うためにラボにも出る必要はない。逆に出ることを禁じる。今後、多忙を極めることになるお前にとって、この一週間はなににも代え難い休息となるだろうからな。
お前にはこの後、医師免許の国家試験という難関が控えている。束の間の休息を十分楽しんでおくと良い。」
「はい、先生。それでは、失礼します。」
リンは大きくお辞儀をすると、研究室を出ていった。その後ろ姿をそっと見送ると、ドクター・ブルームは自分の教授室へと戻っていった。




