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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
55/152

55.運命の口頭試問


 運命のその日、空は抜けるように晴れ渡り、そのかわり、放射冷却現象によっていつにも増して冷たく乾いた空気が辺りに立ちこめた。

 いつものようにジョギングに出かけたリンが鼻を真っ赤にして寮に戻ると、ミリアムが待ちかまえていた。


「おはよう、リン!さ、バスを用意しておいたわ。ゆっくり浸かって身体を温めて?」


「ありがとう、ミリアム。」


湯気がもうもうと立ち昇るバスにその身体を沈めると、ほのかにペパーミントの香りがする。集中力を高め、頭をすっきりとさせてくれる匂いだ。今日が口頭試問当日であることを承知しているミリアムのさりげない気遣いに、リンは心の底から感謝の気持ちでいっぱいになった。

 バスから上がったリンを待っていたのは、ミリアムによって完璧に整えられた朝食だった。 その内容はグッドマン監修の元、ディスカストス侯爵家おかかえシェフが作ったものである。ミリアムはそれを寮の部屋に持ち込んだ電子レンジで温めただけだが、そのテーブルの上は明るく、食欲をそそるようにと工夫され、配置されたランチョンマットやカトラリーの()にミリアムのセンスや気遣いが光っている。それは以前ミリアムが以前通っていたルッジアのハイスクールで習ったテーブルセッティングやカラリストの知識を応用したものだった。

 ミリアムと共にリラックスしながら朝食を食べ終えると、やがてリンは口頭試問の会場に向かった。

 リンの心は意外なほどスッキリと澄み切っていた。前日は出題範囲をざっとおさらいし早めに就寝したし、朝食は計算通り、試問の時間に最も集中力が発揮される時間に摂った。なによりも、昨日までに出来る限り最大の努力を払い、寝食を忘れて勉強してきたことがリンの中に不動の自信を与えてくれている。あとは本番で集中力を切らさないこと、そして、試問の中身をきちんと受け止め、的確な回答を行うことだけに、注力すれば良い。ポケットの中にはチョコレートが入っている。試問と試問のインターバルは極力短くしてくれるようにドクター・ブルームに頼んであるから、早ければ午後のお茶の時間までに終わるはずだ。

 リンは左の手首に巻いてある、古ぼけた腕時計でそっと時間を確認すると、指定の時間よりも5分早く、指定された小さな講義室へと入っていった。


*-*-*-*-*


 一人目の試問官はドクター・ブルーム研究室とは中庭をはさんで反対側に位置する場所にこぢんまりとしたラボを抱えている教授だった。ウィリアムズ・カレッジの医師養成課程ではドクター・ブルームに次いで若い教授で、その分非常に柔軟でリベラルな考え方をする速読の達人で、最新の論文を隅から隅まで網羅し把握しているので有名な研究者でもある。彼からは、やはり最新の心臓外科手術に関する内容が出題された。

 リンはそれに難なく答えた。救急救命医を目指すリンにとって、最新技術は正に最も身につけていなければならないことだから、口頭試問とは別に、特に入念に勉強しておいたのが効を奏した。

 その若い教授は、油染みた頭髪に指を入れ、ガシガシとかきむしりながら、嬉しそうに笑った。リンは手応えを感じ、1回目の休憩に入った。


 続いてリンを試した試問官は、小さな身体をした老女医だった。聞けば産婦人科が専門で、東洋医学に通じているとのことで、有名な人だった。陣痛促進剤で計画的に進められる、ある種人工的な出産を良しとせず、妊婦の身体と胎児の様子との対話を大切にすることで、より自然でよりスムースな出産を推奨している。そんな姿勢が昨今のセレブ層に支持され、テレビや雑誌で良く取り上げられている。

 その小さな白髪の女医は、リンに東洋医学についてごくささやかな出題をし、リンはそれに熱意を持って答えた。女性として出産は非常にリスクの高い生物学的かつ社会的な事象だ。出産そのものによって命の危険にさらされ、同時に勤務先を休むことで解雇や降格、理解のない同僚からの精神的圧迫という勤務続行に対する支障を抱えることにもなるのだ。

 リンは女性という子供を産む性として、また、化学物質による急速な治療で体内物質のバランスが崩れることに対するアンチテーゼとしての東洋医学に興味を持っていた為、最後は口頭試問というよりも老女医とのディスカッションのようになった。

 時間切れで終了せざるを得なくなった時、老女医が見せた満足そうな表情に、リンは大きな手応えを感じた。


 しかし、3人目の宗教関係者らしい男性の出自を明かされた時、リンの頭に、一瞬だけだが、この口頭試問の不合格が過ぎった。というのも、この男性が代々高い地位を約束された宗教的上流階級の出であり、しばしばその立場と正反対の差別的な失言によって差別的な思想を露呈する問題のある人物だったからである。

 勉強ばかりしてきたリンは、彼の名前を知ってはいたが、顔は知らなかった。しかし、そのおかげで1人目と2人目の試問を、高い意欲でこなすことができたと言えよう。

 リンは目の前のその司祭を見るともなく眺めた。小柄な躰にぶよぶよとした贅肉を纏い、それを金糸で彩った美しい冠衣で覆っている。なんとなく不機嫌そうに見えるのは、リンが彼の顔を知らなかったことが、気に障ったらしい。

 肉にめり込み、小さく小さく、しかし何とも言えない鋭さで見つめてくるそのは虫類のような両眼を見つめ返しながら、リンは最後の試問を聞いた。司祭はまるで肉を与えられた犬のようなしたり顔で、リンの息の根を止める為にその問いを発した。

 喋るたびにパラパラと唾が飛んで、試問官の前にある机を覆った白い布の上に吸い込まれていく。リンは、最初の3秒間だけ、その唇がペチャペチャと音を立てるのに不快感があったものの、4秒経った頃にようやく集中状態に入った。すると、司祭のいやらしく持って回った言い方もぬらぬらと光る酷薄そうな唇も気にならなくなり、その試問の内容とそれに対する自分の思索が脳内で同時にするすると作成されていく。

 要約すると、司祭の試問の内容はこういう事だった。


『目の前に瀕死の罪人がいる時、治療を行うか否か?

 また、社会的地位の低い人物の治療中に社会的地位の高い重要人物が治療を求めた時どうするか?』


リンは答えた。


『罪人であろうと善良な人間であろうと、患者は患者である。治療を行うのに区別もためらいもない。

 社会的地位にかかわらず、自分は自分を求める人の為に尽くす。医師として自分の得意分野で唯一無二の技術を身につけ、それによって生き長らえることのできる、より緊急度の高い患者の為に尽くしたいと思う。』


司祭はいやらしい嘲笑を浮かべながらリンを(なじ)った。


『罪人は神を否定し、捨てた人間である。そうした人間に治療を行うことに躊躇(ためら)わないとは、それは神を否定することと同じではないか?』


『いいえ、神は決して人を差別したり区別したりはなさらない。罪人は神を否定することも捨てることもできるが、神はそれを咎めない。

 人間には、どんな時点であっても、例えそれが死に至る最後の一秒であっても、悔い改めることのできるチャンスが残されている。

 神が見捨てない人間を、私のような卑小な医者が見捨てることはできない。』


すると司祭は言い負かされた悔しさに赤く紅潮した顔をゆがめながら、更にリンに襲いかかった。


『きれい事を言っているが、それでは目の前の罪人が自分の愛する人を、大切な人を(あや)めた人間であった場合はどうか?その憎しみや恨みを捨て、治療にあたることができるのか?』


しかしリンは毅然とした表情で、ただ答えた。


『そうした罪人であれば尚更熱心に治療を行うだろう。そして快復し、その罪人の耳目(じもく)が自由になった後、失われてしまった自分の愛する存在について語るだろう。私の悲しみを、苦しみを語るだろう。その罪人の瞳の中に神への想いが兆すまで、私は語り続けるだろう。

 だから私は彼を助ける。人間は変わることができると信じているから。知っているから。』


司祭は頷かなかった。目の前の小さなとるに足らない女学生がまるで彼を(たしな)める聖母のように見えたのが不快だった。

 そう、とにかく司祭は不快だった。この、目の前の黒い髪をした、平凡な風貌の一学生が、有名人である自分の顔を知らなかったことも、社会的地位の高い自分に憧憬の眼差しを向けないことも、自分の喋ることに乗りだして相槌を打たないことも。

 そしてどうやら自分の試問を彼女は悉く突破したことに、最も大きな不快を感じた。

 司祭は大きなため息をついた。両手を机の上でゆったりと組み、少しだけ上半身を正対しているリンからずらして、バカにしている様子を伝えるためだけに、もう一度大きく嘆息した。


『けっこう。私からは以上。』


そして無言で立ち上がると、他の二人に目配せをして、試問官用の協議室となっている隣の小部屋に去っていったのだった。


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