5.学長の悔恨
「リン!」
別荘地のゴージャスな住宅街を抜け、岬の突端へと続く私道のゲートをくぐって5分も走った頃、その建物は見えてきた。アクセルとミリアムの曾祖母が生まれ育った田舎の港町に似せて作られたプライベートなマリーナと裏庭を持つこの別荘は、2人にとって家族の幸せな思い出の詰まった唯一無二の大切な場所だ。
それだけに、2日も3日も前からやけにそわそわと兄の出立を何度も確認するミリアムに、アクセルは寂しい思いをさせられた。いつもは出立を遅らせて欲しいと駄々をこねる妹が、早くいなくなれと言わんばかりに浮き足立っている。
自分が別荘を離れて仕事に戻る予定の翌日にいったいなにがあるのか?もしや、男友達でも連れ込むのではないか?大切な、たった一人の家族であり妹であるミリアムのことだ。「過保護に過ぎる」と周囲にどれほど揶揄されても、気にも留めないアクセルは今回もミリアムの行動を調べさせた。そして、大切な妹がその潤沢な小遣いから汽車のチケットを手配して発送しているところまで突き止めたのだった。発送先はデリースのとある男爵家気付。そこがリン・バクスターの勤め先であることは容易に知れた。
(まだ個人的なつきあいがあるのか・・・?)
一度しか会っていないリンのたたずまいを思い出すたびに、突き上げる苛立ちと得体の知れない衝動を抑え込みながら、アクセルは調査報告書を机の上に投げ出した。
彼の妹が愛情と友情に飢えているのはわかっている。事業を抱え、多忙を極めるアクセルはそう四六時中彼女の側にいてやれないからだ。
かつて、エレメンタリースクールの学齢までを外遊する両親について第3地域で過ごしたミリアムがこの国の上流階級と呼ばれる人々に馴染めないことはよく理解できる。生活環境の厳しい、素朴な人々の暮らすかの外つ国々では「率直さ」や「誠実さ」といったものが未だ生き残っていたから、その文化の中で生まれ育ったミリアムが「本音と建て前」を使いこなし、虚飾と見栄に彩られた毒々しいこの国の貴族文化に拒否反応を起こすことは当然と言えた。
それでも、ミリアムはディスカストス侯爵家の女相続人であり、実業界で大きな権力を持つに至ったアクセルの妹なのだ。いつまでも社交界の人付き合いに背を向けて「あの人達キライ」が通じるものではない。
だからこそ、すこしでも人脈を広げられるように、と、名門と名高く、良家の子女が集まるウィリアムカレッジへの入学を許可したというのに!ふたを開けてみれば、妹の同室者は孤児院あがりの奨学生だというではないか!猛然と抗議するアクセルに、学長は言い放った。
『閣下。本学は、この国の根幹を担い、現代社会を生きる、先進的でかつ魅力と胆力に溢れた女子教育を理念としています。そこには階級差別は不要であると私は考えています。ミリアムさんは優秀です。しかし、今まで人間関係に恵まれなかった。それを補完する目的で、リン・バクスターを同室にしたのは、本学教授陣及び寮監のベストな判断であると私は信じています。』
『・・・それでは、当初約束していた寄付を減額させていただこう。妹に悪影響を与える決定を、易々と受け入れるわけにはいきません。』
地位と金を嵩に着た、イヤな申し出だと、アクセルだってわかっている。それでも、それが最後の交渉材料だった。
アクセルは、そうした「金」を介在した交渉しか知らないのだ。それは、優秀で有能なビジネスマンであると同時に、この国の社交界きっての大富豪であり、尚かつ最も古い血筋を誇る貴族の中の貴族ともいえる爵位持ちとして生きてきた彼にとっては唯一の行動規範だった。
アクセルは知らなかった。目の前の小さな老婆にしか見えない学長が、なによりもミリアムを憂い、そうした措置をとってくれたことに。
リンという「個性」と生活を共にすることによって、ミリアムの傷つき、希望を見失った優しい精神に、光を与えたい。学長はそう考えた。
そこには深い悔恨が刻まれている。アクセルには間に合わなかった、という慚愧が心を苛んでいる。
学長は先代のディスカストス侯爵夫人の歳の離れた友人でもあった。小さく愛らしい友人が、遠い外国でその夫と共に熱病によって命を喪った、というニュースを聞いた時、真っ先に思い浮かべたのは真面目で優秀だが優しい青年と、まだエレメンタリースクールに通う無邪気な少女のことだった。
その後、風の噂や社交ゴシップ新聞の記事で青年の女性関係が華やかであることや、ビジネスを大きく拡大させ、巨万の富を築いたことを知った。
ところが、妹の入学準備としてちょくせつ本人に相対した時、学長はアクセルが自分の手の届かない場所にまで行ってしまったことを痛感した。
彼は「誠実」を、「友情」を、そしてなにより「愛情」を信じられない男に成長していた。その目の中には冷淡さと全てをコントロールしようとする強い傲慢さが見え隠れしており、敵と判定した相手はとことん叩き潰す、そんな苛烈さが備わってしまっていた。学生だった彼が両親の死によって実業界に漕ぎ出さざるを得なくなり、そこで「金」と「ビジネスゲーム」の洗礼を受けたことは想像に難くない。事業はきれい事ばかりでは運営できない。時には心を鬼にして対応しなければならないこともあったろう。
そんな思いを胸に秘めたまま、学長は毅然として、アクセルの不躾な脅しを突っぱねた。
『かまいません、侯爵閣下。本学には長い伝統と、深い同窓生との繋がりがありますから。閣下からの寄付金が例え0になろうとも、財政に影響を与えることはありません。』
そうしてアクセルはカレッジに対して自らの影響力が皆無であることを思い知らされたのだった。