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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
48/152

48.湖畔の抱擁

 アクセルの瞳の中に感じられる、自分が求めて止まなかったソレを見つめながら、リンはどこか怯えている自分を感じた。自分の身の上にこのような僥倖が訪れるなど、考えたこともなかった。そんなリンにとって、あまりに突然差し出されたその手を取ることは、あたかも悪魔の誘惑に似ていた。つまりは、それを受け取ったら最後、引き替えになにか良くないことが起こるのではないか?という、疑心暗鬼さえ、かき立てられる心地がするのだった。


「リン?」


アクセルは焦りを隠して、リンの顔を覗き込んだ。リンが戸惑っていることが、ありありと感じられる。しかし、少なくとも、今、リンにとって恋愛を含めた交歓を持つ相手はいないはずだ。それならば、真心を込めて話せば、きっと自分の気持ちを受領してくれるはず。アクセルはそう期待して言葉を続けた。


「あの、モン・ペリエ大学の構内で私の謝罪を受け入れ、そして仲良くなりたい、といった言葉を信じてくれたように、私が君の事を好きだと言う気持ちを信じて欲しい。

 私がこの気持ちを表現することを許して欲しい。

 そうして・・・。

 できれば、その気持ちを受け入れて欲しいのだ。」


「・・・閣下・・・。」


親しみを表現する為に無理をして『アクセルさん』と呼ばわっていたリンであったが、もう、そんな気遣いをする余裕はなかった。混乱し、そして目を伏せたまま、ギュっと握りしめられた自分の手とそれを包み込んでいる男らしい骨張った、しかしどこか優美なアクセルの指を見つめた。


「・・・閣下、私は孤児です。」


リンはようやく声を絞り出した。それはアクセルが聞いたことがないくらい、低く、どこかかすれていた。


「知っている。」


アクセルが相槌を打った。本当は抱きしめてしまいたい。が、リンの張りつめた様子に、自制心を働かせ、ただただ優しく答えるに留める。


「普通に生活していれば、閣下みたいな人と出会うことも無かったし、ましてや、口をきくことも知り合いになることもなかった。そういう人間です。」


「・・・・」


リンの視線がようやくアクセルの瞳をひた、と見つめ返した。アクセルはリンが再び話し出すのを、根気強く待った。


「ミリアムとカレッジで出会わなければ、こんなふうにおつきあいしていただくこともなかった・・・ううん、ミリアムと友達づきあいをしても、ご家族である閣下と顔を合わせるなんて、本当なら、あり得ないことでした。」


アクセルの灰色の瞳の中に、かすかな揺らぎが起こった。リンが背にしたレ・バン湖の湖水の蒼が反射したのか、それともアクセルの心になにかの波風が立ったのか。リンには判断しかねた。


「何が言いたいかと言うと・・・。

 断るべきだということは、わかってる、ってことなんです。

 とても、ありがたいことです、って。

 大変、光栄です、って。

 そう言って、きちんと線引きするべきなんだろう、って。

 だって、私と閣下はなにもかも、全てが違いすぎますから。」


 アクセルはゴクリ、と喉仏を上下させた。知らず知らずに手の中に包み込んだリンの手を握る指に、力が籠もる。


(ああ、お願いだ、リン・・・。私を拒否しないでくれ・・・。)


アクセルは、縋るように柔らかい榛色(ヘイゼル)の瞳を見つめた。


「それなのに・・・。

 嬉しいんです、私。信じたい、って思ってしまうんです。閣下が私の事を好きだ、って気持ちを。今、示してくれた愛情を。」


「リン、それは・・・。」


アクセルは有頂天になりつつ、必死で冷静さを装いながら、リンに抱きつきたい気持ちを堪えた。


「私自身にも、わからないんです。自分が閣下のことをどう思っているのか。閣下と同じように、好きなのか?そのーークリスと同じような?そういう『好き』なのか?葛藤があるんです。

 もし・・・、もし、真剣に閣下の言うことを受け入れたり信じたりしたとして、その行く末になにがあるというのか?って・・・。

 だから、今はただ、閣下の気持ちが『嬉しい』って。それだけしか、そう感じた素直な気持ちしか、お応えできないんです。」


リンは考え考え、正確を期するように言葉を紡いだ。

 リンはいつだって『家族』に憧れてきた。孤児院の仲間達やシスター達は、家族と呼べる存在だったと思う。しかし、それとは別の、もっともっと強い結びつきで互いを支え合う、そんな存在に憧れてきたのだ。

 そんなリンにとって、アクセルはまさにリンの理想とする『家族』だった。ミリアムを守り、ミリアムを支え、ミリアムを愛している。その強い保護本能のせいで傷つけられ、辛い思いをしたこともあったけれど・・・。それだって、ミリアムを、たった一人の家族を守る為だった、と考えれば、羨ましい気持ちが沸き上がりこそすれ、いつまでも恨みに思うことは難しい。

 そのアクセルが、自分の事を好いてくれているという。アクセルの眼差しを受け止めた時、リンの頭に浮かんだのは、アクセルに守られ、なにも怖くない絶対的な安心感を噛みしめ、幸せそうに微笑む自分のビジョンだったのだ。


「閣下の事を好きか、と訊かれれば好きですと答えられます。でもそれは閣下が求めている『好き』かどうか、まだわからない・・・。だから、閣下、私に時間をくれませんか?」


リンはアクセルの手を握り返して言った。


「それは、どういう・・・?」


アクセルは、戸惑いを隠さずに問うた。


「私はまだ、一人前の医師にすらなっていません。自立していないんです。こんな状態で、閣下の気持ちに向き合うのは、とっても難しいんです、私にとって。」


リンはアクセルの両手の中に囚われている手を反転させ、自分からアクセルの両手をギュっと握って続けた。


「ですから、せめて医師になるまで、今まで通りのおつきあいをさせて欲しいんです。」


それはとてもリンらしい返答だった。顔が上気し、血流が多くなったせいで、その榛色(ヘイゼル)の瞳には、緑の斑が浮かんでいる。


「閣下の事を、大切な友達のお兄さんとしておつきあいしていくか、それとも・・・先程閣下が言ってくださったのと同じ意味で、おつきあいしていくか?その答えは一人前の医師になるまで、待っていただきたいのです。」


その返答に、アクセルはようやく緊張を解いて、ほぅっと息をついた。そして、両手をリンの手から離し、そのままリンの身体をその腕の中に抱きしめたのだった。

 鼻先をその項と首筋に埋め、大きく安堵の息を吸い込むと、リンの首筋からは、ラベンダーのサボンの香りがした。


「か、閣下!!」


リンが慌ててアクセルの腕を外そうと手をかけたが、アクセルはそれを無視して、より一層リンを抱く腕に力を込めた。


「ありがとう、リン・・・。」


 なんとかアクセルの身体を遠ざけようとムダな努力をしていたリンだったが、くぐもった声で耳許に届けられた、アクセルの気持ちの籠もったつぶやきに、全身の力が抜けていくのを感じた。

 アクセルの腕の中は暖かく、がっしりと重量感があって、それでいて、圧倒的ななにかに包まれているという安心感があった。


「リン、リン・・・!」


アクセルは何度も何度もリンの名前を呼んだ。やがてリンはつっぱっていた腕をそっとアクセルの背に廻しーー。そのままそのしなやかな筋肉に覆われた背中を抱き返した。


 こうしてアクセルとリンの関係は、新たな一歩を踏み出すことになった。それはアクセルにとっては酷く困難な道であり、一方、リンにとっても別の意味で困難な道であることは、間違いないだろう。

 しかし、今この時だけは、アクセルはただその抱擁に、腕の中の愛しい人の体温に、その香りに、そして、抱き返してくれた腕のぬくもりに酔っているのだった。

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