47.無償の愛
(自分が心底求めるものが、クリアであるということはなんと気落ちの良いことだろう!)
その証拠に、今、この瞬間、アクセルの視界は冴え冴えとコントラストを増し、立体的に見えた。目に映るもの全ての色が鮮やかに、自然の美しさのままに、生まれ出でたまま、そのままで完璧な色と形をしていることが良くわかった。そして、今まで自分が見ていた視界がどれだけくすんでいたのか、曇っていたのかに、気付いた。それは、まるで灰色のフィルターがかかっていたかのような、変化だった。
毎朝鏡の中に見つける、自分の灰色の瞳を思いだし、アクセルは自嘲するように笑った。灰色の瞳をしているからといって、世界が灰色に見えるわけがないのは分かっている。しかし、恋心を自覚した、ただそれだけのことで、これほどまでに世界の鮮やかさが変化するとは!アクセルは恋心が持つその力に、正に目が覚める思いだった。
「アクセルさん、楽しそうですね。」
そんなアクセルを見て、リンが嬉しそうに笑った。アクセルが幸せそうに笑っている、それだけで自分も嬉しくなってしまう。リンもその程度には、アクセルを近しく感じている。
そんなリンの両手を、アクセルはそっと握った。
「アクセルさん?」
どうしたのか?と問う眼差しで、リンが見上げた。
アクセルは、作為的な全てを忘れ、なにも考えずに、心の底から沸き上がる暖かな気持ちをそのままストレートに舌に乗せた。
「リン、私は君が好きだ。」
「!」
リンの鼓動がドクンと跳ね上がる。しかし次の瞬間、無敵の『恋愛除去モード』が作動した。リンの中にある、強力な母性本能は、ほとんど反射のようにアクセルの言葉を『友情』にすげ替えたのだ。
「ええ、閣下。私も閣下のことが大好きです。」
リンはニッコリ笑った。
しかし、そんなリンの頬に片手をあて、軽く首をふってアクセルは答えた。
「まずはありがとう、と言っておこう、リン。私のことを好きでいてくれて。愚かだった私のことを許してくれたことに。
しかし、私の言っている『好き』は、その『好き』ではない。さっき、クリスが君に告白したのと同じ性質の『好き』だ。」
「・・・!・・・」
リンの目がまん丸に見開かれた。そして、慌てたようにキョロキョロと忙しなく動き、やがて握られている自分の両手のある下方へと伏せられた。
「冗談でしょう、なんて、言わないで欲しい。」
先手を取ってアクセルが言った。
(リンはそう言って、この告白を誤魔化してしまおうとするかもしれない・・・。)
そう考えたからだった。
果たしてその通りのことを考えていたリンは観念したかのようにそっと目を開け、恐る恐る、アクセルの瞳を覗き込んだ。
そうしてリンは見た。
暖かく、柔らかく、そして限りない愛情に満ちた、その瞳を。
リンは恋に目覚めたアクセルの、その瞳の醸し出す愛情の深さにただ、見惚れた。そこには限りない受容の色があった。なんの心配もない、親の腕の中の世界のような、どこまでもどこまでも暖かで、柔らかな綿花でくるまれるようなフワフワとした幸福感。アクセルの瞳にボーっと見惚れながら、リンは得も言われぬ暖かさが自分とアクセルの全身をぽかぽかと包んでいるように感じたのだった。
それはリンが物心付いた頃にすでに諦め、心の深い深い場所に封じ込めた憧れの対象だった。また、同時に、自分には一生縁のないものだと、絶望と共に決めつけ、人生の外に追いやった『夢』だった。
孤児である自分には、無償の愛を与えてくれる両親も家族もこの世に存在しない。その聡明さ故に、小さな頃から自分の境遇では、『無償の愛』は得られないだろうことを肌身で感じたリンは、その事実から派生する寂しさや哀しみを処理する為に、心のどこかで『無償の愛』への憧れを、切り捨てて生きてきたのである。
やがてリンは、その破れた夢のせいで生じた心の虚を埋めるように、目下の子供達の世話係を率先して引き受け、愛情を注いだ。リンは献身的に振る舞った。孤児院の同輩達を愛し、世話を見て、勉強の大切さを説く。手製のハーブやレメディの効果を実感し、自分たちが受けている差別を知った時、医師になるという目標が生まれた。そしてそれに向かって、弛まぬ努力を続けてきたのである。
リンは思った。
自分が心の底から求めている『無償の愛』。例え自分自身はそれを得られなくても、一緒に暮らす孤児院の子供達に、その片鱗を与えることはできるはずだと。
そうしてリンは、自分が得ることはほとんど諦めていたものの、周囲に対しては、『無償の愛』と呼べるべきものを、与えられるよう努力し続けてきたのだった。
計算違いだったのは、年少の子供達に対して『無償の愛』を与えよう、と努力することで、どんどん自分自身も充足感を味わうことができるようになっていったことだった。
リンはひたすら与え続けた。自分の中の虚を埋める為に、ただひたすらに自らをさしおいて、自らのことを考えないようにして生きてきたのだ。
そして今、それらをそっと差し出し、微笑む存在に出会った。いや、とうに出会ってはいたが、硬い殻をかぶっていた為に、その姿を見せることができなかったのだろう。
無理もない。当初、それは茨の鞭の形をして、リンに与えられた。その鋭利な棘によってリンの心は酷く傷つけられた。
ところが、今、その鞭を振るいリンの心を鞭打った男性がその傷を癒してあまりある、リンの心底求めるものを与える為にその手のひらを差し出しているのだった。




