42.侯爵閣下の焦り
テーブルにつき、ウェイターを呼ぶと、アクセルはさっさとメニューからいくつか選んでオーダーを済ませた。その間中、クリスはリンを独占し、いままで10年間の出来事を面白おかしく語った。
最初はむっつりとしてこの不埒な乱入者を警戒していたアクセルだったが、そのあまりに軽快な語り口調に、いつしか引き込まれてしまい、やがてはリンと共に大声を上げて笑う羽目になった。
クリスは手練れの話し手だった。小さい頃からいつもその話術で、常に周囲の人間を楽しませてきたであろうことが伺えた。おそらくそれには、孤児という生まれが関係していると思われた。路上でも孤児院でも、自分以外に大勢の子供達がひしめいている。その中で、少しでも可愛がられたり、利益を被るためには、目当ての大人や年上の少女を惹き付けねばならない。そして、そのことによって、必要な手助けを得ることは厳しい生活のなかでほとんど死活問題だったことが、クリスの生来の話術を、益々上達させることになった。
*-*-*-*-*
クリスを引き取ったのは、デューランズの裕福な商人夫婦だった。子供に恵まれず、かといってデューランズ国内で養子をとることを嫌がった夫人のたっての希望で、アザリスの孤児院に白羽の矢が立ったのだという。
引き取られた時、すでに7歳になっていたクリスにとって、第一の問題は言葉だった。しかし、持ち前の明るさと孤児院へ戻されたくない、という強い気持ち、そして心の中に温め続けた将来の夢がクリスを助けた。元々、言葉を操ることは得意だったのも効を奏して、デューランズで学校に入ってから1年あまりでデューランズ語をマスターしたクリスは、更なる勉学に励んだ。
養父母の愛情を受け、クリスはすくすくと育った。やがて懸命な努力の甲斐あって高校の教育課程を1年飛び級するまでの力をつけ、この秋からモン・ペリエ大学への進学を決めた。
おっとりした良家の子弟が多く通うクリスの高校では、わざわざ飛び級してまで懸命に勉強する学生は稀である。クリスは一刻も早く一人前の大人になって、両親の仕事を手伝いたいと思っている。そしてもう一つ。この明朗快活な赤毛の少年には、心の奥底で大切に温めてきた夢があった。それは小さい頃から自分に愛情を注いでくれた、黒髪の少女を、迎えに行きたい、という想いだったのである。
幼い頃、浮浪児としてスラムで暮らしていた自分を引き取ってくれたシスター・マーガレットの孤児院で、その4歳年上の少女とクリスは出会った。引き取られた当初、散々暴れては周囲を困らせたのに、彼女は、決して自分を見捨てず、見放さず、根気よくごく自然に接してくれたのだった。
やがて問題行動が少しずつ収まり始めると、大抵の孤児がそうであるように、クリスは酷い後追いとつきまといで、より一層彼女を困らせるようになった。しかし、そうした状態になっても、彼女は変わらず自分の世話をし、時には叱り、ふんだんな愛情を注いでくれたのだった。
いつしかクリスが母親とも姉とも呼べる深い深い親愛の情を抱くようになったのも、ごく自然な事だったといえよう。
そんな矢先に持ち込まれた養子縁組の話をリン命だったクリスが受け入れようと決意したのは、ただただ、お金持ちの家の子供になって彼女に沢山の洋服や美味しいお菓子を買って上げたい、という実に子供っぽい気持ちからだった。
ところが、クリスの愚かで子供っぽい見通しは外れて、あっという間に異国の地に連れてこられてしまった。『リンに会いたい!孤児院に帰りたい!』そう泣き叫ぶ赤毛の少年に、養親達は懸命に諭した。『お勉強を頑張って、沢山お土産を買って帰ればいい。』『そのお姉ちゃんをお嫁さんにもらえるように、立派な大人にならなくちゃ!』。泣いても叫んでも、何度脱走を企てても結局は養親に連れ戻されることを繰り返し、とうとうクリスは決意した。
『きちんと稼いで、お金持ちの大人の男になって、リンを迎えに行く』と。
幼かったクリスにとって、それは強くまるで太陽のように輝く、確固とした目標になった。辛い時、苦しい時。どんな困難に出会った時も、リンとの思い出といつかリンを迎えに行く為に立派な男になる為に頑張らなければ!という想いは、いつだってクリスの心の支えとなったのである。
そんなクリスにとって、リンとばったり再会した、この偶然は、もはや偶然ではなかった。この10年間、何度も何度も夢想した、山のようなお土産を携えた自分と、美しく成長したリンが、孤児院の玄関で抱き合う、というロマンチックな再会劇は果たせなかったけれどもーー。
それでも、約束もなにもないまま、こんなアザリスから遠く離れた異国の地でずっとずっと会いたかった少女に会えたのである。しかも、自分はリンを一目で識別したのだ。もちろん、シスター・マーガレットからのクリスマスカードには、いつだって孤児院の仲間達の写真が同封されていたから、リンがどんなふうに育って変わっていったかを知らなかった訳じゃない。
しかし、集合写真の中のリンの顔はとても小くてーー。懸命に目を凝らしては、小さい頃のおぼろげな面影を重ねては、夢を再確認してきたクリスなのだ。
そんなふうに想いを温めてきたクリスが、この意外な再会にすっかり有頂天になったとしても、無理はあるまい。夢見がちな17歳の少年が、運命を味方につけた、と勘違いしても仕方がない、正に運命的な再会だったのだから。
*-*-*-*-*
そんなわけで、食後のデザートに出されたモン・ペリエ名物・水蜜桃のジェリーに手も付けず、クリスは至極真剣な顔でリンに言った。
「リン、俺・・・俺・・・ずっと胸に温め続けてきた将来の夢があるんだ・・・。」
そんな風に話し出したクリスの様子に、アクセルはイヤな予感(いや、ほとんど確信)を覚えた。
ところが、とにかくアクセルにはこうした時、どうしたらよいのかノウハウがなかった。
もしもアクセルに普通の恋愛経験があれば、こうした局面でどう振る舞えば良いのか分かったはずである。しかし、生憎と、麗しのディスカストス侯爵閣下は、言い寄ってくる女性を断ったり、言い寄ってくる女性の親を断ったり、言い寄ってくる女性の使いである男性を断ったりといったことしか場数を踏んでいなかったのである。
人の恋路を邪魔したり、ライバルを牽制したり、蹴落としたり。ましてや、目の前で自分の愛する女性に誰かが真剣に告白しようとしているのを、スマートかつ、目当ての女性に好印象を与えつつ妨げる、などという高等テクニックを持っているわけがなかった。
(まずい・・・。どうあっても、この少年の口を塞がねばならない!なんとかこの場の雰囲気を壊さねばならない!
しかし・・・。どうしたらいいんだ!グッドマンに相談しようか・・・?)
知らず知らずにスマートフォンを握りしめるアクセルであるが、すぐに思い直した。電話をかけるために、この場を離れること。つまりはクリスとリンを二人っきりにさせることこそ、決してしてはならないことであることくらい、さすがのアクセルにも分かったからである。
一方、クリスのほうはといえば、驚くほど正確に、アクセルの心情を感じ取っていた。恋する男の本能である。この、そんじょそこらでは拝めそうにない、とびきり上等な男ぶりの侯爵閣下が、紛れもなく自分にとって最大のライバルである、と、クリスの『恋する男の本能アンテナ』がビシビシと伝えてくる。
商人の息子として市場を、人の心を読むための英才教育を施されたクリスにはよく分かる。この、不思議な髪の色と、雨の日の海のような灰色の瞳を持った男が、とにかく手強い相手であることは間違いない。
爵位持ちで大金持ち。着ている服やつけている時計を見れば、そんなことは一目でわかる。並大抵の金持ちじゃない。大富豪という人種だ。
それだけではない。このライバルは見目形も良いのだ。
落ち着きのある態度に、均整の取れた肢体。長身だがひょろりとしたところはどこにもない、しなやかな筋肉に覆われた身体が、ごく自然にリンをエスコートしながら歩いてくるのを見て、クリスは驚くと同時に絶望的な気分になった。
しかし、ランチを同席したテーブルでの会話の流れで、リンがこの恐ろしく極上な侯爵閣下に対して、恋愛感情の欠片も持っていないことがわかて、クリスの有頂天は見る見るうちに復活を遂げた。
しかも、どうやらまだこの『麗しの貴公子』はその気持ちをうち明けてもいないらしい!会話の中にさりげなく織り交ぜた質問によって、それを確信したクリスは快哉を叫びたい衝動を必死で堪えた。
そんなこんなで、クリスは決意を固め、そしてそれを行動に移したのだった。恋愛は早い者勝ちである。無論、商売の世界も、であるが。




