4.悪夢の再会
夏休み、ミリアムは夏の避暑別荘のある北部の街、ギースへ。リンは再びベィビーシッターのアルバイトをしに酷暑の首都デリースへと向かった。
さすがにもうミリアムは兄とリンを会わせるような無謀なことはしなくなったが、どうしてもギースの美しい海岸地帯をリンと楽しみたい、と言い張った。
「だって、本当に美しいのよ?大丈夫、お兄様は仕事が忙しくて、いつも8月半ばにはデリースへ帰ってしまうから。そうすれば、2週間はゆっくりできてよ。ねぇ、リン、お願い!退屈な私を助けると思って、是非、遊びに来てちょうだい!」
「そうねぇ・・・。」
リンは迷った。ディスカストス侯爵本人に会わないまでも、妹とあまり仲良くなって欲しくない庶民階級の、しかも孤児の自分が、彼の別荘にのうのうと滞在しても良いものなんだろうか?
「ギースの別荘はお兄様だけのものじゃないのよ。私の家でもあるの。だから、リンは遠慮なんてしなくていいのよ!」
そう言い張るミリアムに根負けしたリンは、子供達がそれぞれの寄宿学校に戻ると同時に、その美しい海辺の別荘を訪ねたのだった。
首都デリースからギースへは、国内でも有数のリゾート列車が走っている。ミリアムに問答無用で押しつけられた特等客車のチケットを払い戻しして、一番安い2等客車に乗り込む。狭苦しく硬い座席にウンザリする暇もなく、車窓を流れる美しい海岸線の風景に魅了されながら、約3時間。リンがギースの駅に降り立ったのは、丁度昼を過ぎた頃だった。
国内有数のリゾート地でありながら、王族の避暑離宮がある為に地価が高いこの地域に別荘をかまえることができる貴族は限られており、結果的に、そう混雑しないちょっとした市街地と、そこから少し距離のある海岸沿いのエリアに美しい別荘が並ぶエリアがあった。
「歩いていくから」
と電話で伝えたリンに、ミリアムは笑って
「無理無理!」
と断言した。
「うちの別荘は、ギースのはずれにあるのよ?専属の運転手がいるんだから、迎えにやるわよ。」
「でも、そのツテで、侯爵閣下に私の訪問がバレるんじゃない?」
「大丈夫、大丈夫!その運転手は私に甘いのよ。私がお願いすれば、お兄様にもきっと秘密にしてくれるわ。それに例えお兄様にバレたって、別にかまわないわ!私がつき合う人は私が決めるんだから!」
ミリアムは自分の大切な友達に対して、兄が失礼極まりない契約書を突きつけたことをいまだに根に持っている。あれ以来、ちょっとした反抗を繰り返しては、侯爵を戸惑わせているらしい。
もちろん、そうした妹の変化が育ちの悪い孤児院上がりの貧乏なルームメイトのせいだとして、彼女の兄がますますリンのことを悪く考えるだろうことは、簡単に予想できた。
しかし、リンはすでに侯爵閣下を見切っている。何を言ってもムダだ、と諦めていた。だからといって、侯爵閣下の神経をわざわざ逆なでするようなことはしない方が良い、と考える程度の良識は持っている。
ミリアムがいくら「大丈夫」と請け合ってくれたとしても、運転手経由で自分の訪問がばれてしまう可能性は0にはならない。それでも、すでにもう自分はこうしてギースの駅に降り立ってしまっている。快適な自動車の窓から、気持ちの良い海風に吹かれながら、美しいと有名なギースの海岸を見てみたい。暑くてうだるようだったデリースの暑気払いをして英気を養い、多忙を極める大学生活へ戻りたい、と思う気持ちを止められなかったのだ。
「青い車体の、自動車、青い車体…」
ギースの駅舎から出ると、予め教えられていたディスカストス家の自動車を探す。と、駅舎前のロータリー状の広場の向こう端に、ピカピカに輝く大きな車が停まっているのに気付いた。
「あれだわ!」
ホッとしながら重い荷物を抱えて車に向かって歩き出したリンだったが、何歩か足を進めたところで、車から降りてきた人物と目があった途端、鼓動が跳ね上がった。
なんと!それは、夏らしい爽やかな出で立ちの、ディスカストス侯爵本人だった。
伯爵は何も言わずに車に寄りかかって、リンを眺めている。当のリンは、いますぐ回れ右をして今出てきた駅舎に駆け込みたい衝動に駆られた。実際にそれを行動に移した途端、侯爵が大股でこちらに近づいてくるのを視界の隅っこに捉えて、リンは慌てた。侯爵は完全にリンを認識している。
(まずい!)
内心慌てつつ、もう少しで駅舎に駆け込もうとした瞬間!リンは侯爵に捕まってしまった。痛いくらいに肘の辺りを掴まれ、全身をビクっと震わせると、恐る恐る振り返り、侯爵と顔を合わせた。
(確か身分の高い方が話しかけるまで、低い方は口を聞いてはいけなかったはず・・・)
腕を掴まれながらも正対せず、ただ目を伏せて礼儀作法のテキスト通りに言葉を発しないように気をつける。息を殺して頭の中で必死にこの場所にいる言い訳を考える。
一方、苦虫を噛みつぶしたような眉間のしわを刻んだまま、侯爵はリンを見下ろした。
「…リン・バクスター…。」
「…はい、閣下。」
名を呼ばれ、答えた。次の瞬間リンの持った重いバッグが取り上げられた。リンがはっとして顔を上げると、腕を掴んだままグイグイと引きずるように大股で歩きだした。リンは呆然としながらも引きずられないよう必死で足を動かし、小走りで彼に従った。
(予定が変わったのね…。ミリアムの話ではとっくにデリースに戻っているはずなのに。)
依然として無言のまま荷物と共に車の後部座席に乗り込むよう促された。ずっと掴まれていた肘の上辺りをやっと離して貰えたので、ホッとしながら見るともなく眺めると、くっきりと赤く手の痕が残っている。リンは無意識にそれをさすりながら、運転席に乗り込むディスカストス侯爵の後ろ姿を眺めた。
ミリアムと話したのは昨日の夜である。昨日の今日で、予想もしなかった出迎えをこうして受けたと言うことは、彼女の兄に関してよほど急な予定変更があったのだろう。
(なんて気まずい…。マナーには反するけど、なんとか話しかけてこのままカレッジの寮に帰らなくては。)
リンは慌ててエンジンをかけようとする侯爵に話しかけた。
「あのっ!」
思ったよりも大きい声が出てしまった。怪訝そうに振り向いた侯爵の目の中にはいかにもウンザリしている心情が見て取れる。リンが孤児だと分かった時、よく向けられる蔑むような目線だが、いつになっても、どうしても慣れることはできないものだ。そのせいで一瞬ひるんだものの、このまま別荘に行けば更なる針のむしろが待っているのは間違いない。
自分を叱咤して、リンは勢いづいて話し出した。
「申し訳有りません。ミリアム様のご厚意に甘えてこんなところまでおじゃましてしまいました。すぐにお暇します。」
口を動かしながらトランクを掴むと、ドアロックを外して車の外に転がり出る。グズグズしていると、また捕まってしまいそうで怖かった。
ところがあり得ないほどの俊敏さで運転席から回り込むと、ディスカストス侯爵は再びリンの腕を掴み上げた。
「さっさと車に戻るんだ、リン・バクスター。こんな公衆の場で私に恥をかかせる気か?」
耳元で低くうなる侯爵のバリトンに、リンの体が震えた。思わず振り仰いだリンの目に、あの、嵐の海を思わせる冷たい鋼鉄のような侯爵の瞳とそこに込められた蔑みの感情が飛び込んできた。リンの体から力が抜けた。そして、そのまま、海辺の道を運ばれていったのだった。せっかく楽しみにしていた車窓からの風景も楽しめないまま・・・。