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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
38/152

38.水蜜桃の誘惑

 翌日、リンが目を覚ますと、すでにミリアムとリチャードは出かけた後だった。なんでも釣りに行ったのだという。

 レ・バン湖はモン・ペリエの海岸線に位置する汽水湖で、わずかに塩分を含む独特の湖水には、様々な希少種が生息していた。それらの種の保護の為に、普段は禁じられている釣りや漁猟であるが、年に1度、バカンスシーズンの限られた期間のみ禁漁が解禁されるのだという。

 たまたまその期間が今日までと分かったのは、昨日の夜のことで、どうしても!と言い張るリチャードにつき合って、ミリアムが同伴した、とのことだった。ーーーというのは最もらしく作られた言い訳で、実際にはリンとアクセルを二人きりにする、という目的の元、4人が立てた作戦であることは言うまでもない。


「リチャード様はなかなかの釣り上手なのでございますよ。今夜の夕食は、新鮮な魚のソテーにする、とコックが申しておりました。」


リンの為に淹れた薫り高いウバを差し出しながら、グッドマンが言った。ちなみに、アクセルとミリアムの滞在に合わせて、ディスカストス侯爵家おかかえコックもまた、昨日からコテージ入りしている。本当ならば、その他にもメイドや運転手など、多くの召使い達が随行してもおかしくはない格式を誇るディスカストス家であるが、今回のバカンスの場合、目的が目的なのでグッドマンによって制限されている。


「じゃあ、私は今日は1日、勉強をしていようかしら?」


朝食の席で、たリンは誰ともなしに呟いた。目の前には、ディスカストス侯爵家秘伝の、クロックムッシューが湯気を立てて鎮座している。一口食べれば芳醇なデューランズ産チーズの風味が口の中に広がった。無言でグッドマンに親指を立てる未来の公爵夫人に、(うやうや)しく頭を下げるグッドマンである。

 そんなダイニングテーブルは、明るいリビングの中央、大きな掃き出し窓に面しており、それに続くウッドデッキと、更にその向こうに広がる湖水を臨むことができた。リンが案内されたその席は、正にコテージ一番の特等席といえた。

 南国らしい明るい布地張りのロータイプのダイニングチェアはソファのように大きな座面をしていて、すっかりリラックスしたリンはその幅広の椅子の上に胡座を組んで座っていた。

 その朝のリンは、真夏のリゾートらしく、タンクトップにショートパンツという、常になく若々しい格好である。その肢体(からだ)は、1年前に比べると、ヨガとジョギングのおかげで肉感的な印象を増しているように見える。しかし、決して脂肪による弛緩したまろやかさではなく、程良くついた筋肉によって下支えされ、瑞々(みずみず)しいハリが生まれており、たるんだ所は一切ない。前日のクルーズで、ほんの少しだけ陽に焼けたその光沢のある肌が、まだ20歳(はたち)そこそこというリンの、健康的な美しさをより一層引き立てていた。

 それに加えて、人目を気にせず元気にもりもりと朝食を平らげていくその様子は、見る者の目を奪い、また、見惚れさせるに十分な魅力を振りまくのだった。

 と、その時だった。

 突然、リンの頭上から聞き慣れたバリトンが、からかいの色を滲ませて降ってきたのは。


「勉強?いったい君は何のためにレ・バン湖まで来たんだ?」


「閣下!」


(釣りに行ったんじゃなかったの?!)


リンは想わず叫ぶと、ハッとしたように慌てて胡座をほどいた。

 一方、そんなリンを甘い甘い眼差しで見つめながら、アクセルはリンの斜め右前の席に座り、からかうように言った。


「ア・ク・セ・ルだ、リン。」


「あっ、アクセルさん、おはようございます!」


「おはよう、リン。」


そう言って膝の上で広げた新聞に目を落とすアクセルの完璧な佇まいに、思わず見惚れるリンである。アクセルは今日もハイブランドのカタログから抜け出てきたような格好をしていた。


(そう言えば、閣下が同じ服を着ているのを見たことがないかも。まさか、一度着た服は二度と着ないとか?)


 アクセルの衣服についてはグッドマンが完璧に管理している。シーズン毎にひいきのセレクトショップのバイヤーが持ち込むものをまとめて購入していた。アクセル自身はファッションにさほど興味を持たないが、自分に似合う似合わないについてはかなりしっかりとした審美眼を持っているので、試着は欠かさない。

 アクセル御用達のセレクトショップの経営者は、実はプレップ・スクールで同期だった貴族階級の次男坊で、家業の後ろ盾を得て大好きなアパレル業界に飛び込んだ、という変わり者だった。アクセルとは長いつきあいのその有能なスタイリスト兼バイヤー兼ファッションアドバイザーは、アクセルの階級、アグレッシブな実業家という側面、そしてアクセル本人のスタイル(言動のポリシー)を熟知しており、それを元にありとあらゆるブランドから衣服をセレクトしてくれるのだった。アクセルはその友人を心から信頼し、洋服についての全幅の信頼を置いている。

 ちなみに1回袖を通した服を二度と着ない、などという非合理的な貴族趣味をアクセルは持たない。ただし、バカンスに出かける時はクリーニングを依頼するのが面倒な為、滞在中必要な分の衣服を全て持ち込むようにしている。当然、毎日違うものを身につけ、尚かつ、同じものを再び身につけることはないため、リンが誤解するのも無理はないと言える。

 この日のアクセルは、白と水色の細かい縦縞(ストライプ)のコットンシルクのシャツに、褪せたインディゴのヴィンテージジーンズ、足下は白のカッターシューズというカジュアルな出で立ちである。至極シンプルで、一見、どこででも売られているようなアイテムの組み合わせであるが、当然どれもこれもハイブランドの超高級品だ。ちなみにカッターシューズは特別な(なめ)し加工をした子牛革で作られた、職人による一品物で、アザリスの平均的な男性の月給が吹っ飛ぶ値段のシロモノだった。


(今日もパーフェクトなプリンスチャーミングぶりですね、閣下・・・。)


 そんなアクセルを惚れ惚れと眺めては、自分との違いをますます実感するリンである。そこに卑屈さはない。ただ『違い』という"埋められないなにか"に対する強い自覚があった。アクセルの申し出を受け入れ、友人としてのつき合いを承諾したリンではあったが、頭のどこかで『友達になんてなれっこないのに』と思っているのも事実だった。それくらい、アクセルと自分との間にはまったく接点も親和性も見あたらない。


(親しみを感じさせる暖かな関係を築くのには異存はないけれど。あくまで私と閣下は、たまたまミリアムという存在をきっかけにして知り合い、閣下の側からのご厚意でつき合っていただいている、それだけの関係だ、って肝に銘じておかないとね。)


リンは改めてそんなふうに自分に言い聞かせながら、ミルクティーを飲み込んだ。砂糖を多めに入れてとても甘いはずのミルクティーが、なんだか苦く感じられるのはなぜだろう?リンは胸の辺りにチクリと感じられる棘のような痛みを誤魔化すように、グっとそのミルクティーを飲み干すのだった。

 と、そんなリンの目の前に、グッドマンによってなにやら甘い匂いのボウルが置かれた。


「バクスター様、どうぞ。今朝ほど、市場で買いました新鮮な水蜜桃でございます。」


「桃?!」


甘い香りの正体は、瑞々しい白桃だった。

 実は生まれてこの方、リンは桃を食べたことがなかった。デューランズをはじめ大陸南部で栽培されているこの果物は、その気候条件から、アザリスで栽培できない。そのため、ごく限られた数量が輸入されているのであるが、海を隔てたアザリスまで輸送されるのには、あまりにデリケートであり、傷まないよう運ぶとなると空輸するしかないシロモノで、畢竟(ひっきょう)高価となる。当然、孤児院育ちのリンの食卓には、上るはずのない贅沢品だった。


「初めてでいらっしゃいますか?」


デザートフォークを差し出しながらグッドマンが言う。


「はい。ーーいえ、缶詰のものなら何度か食べたかな。でもこういう状態で食べるのは初めてです。すごい!良い匂いがします。」


「ーーグッドマン、私の分もリンに。」


そんなリンを新聞の影からじっと見つめていたアクセルが言った。


「えっ?!いえいえ、良いですよ、かっ・・・アクセルさん。自分の分だけで十分です。」


慌てて固辞するリンに、憮然とした表情でアクセルは続けた。


「甘い物はあまり好きではない。遠慮する必要はない。」


「でも・・・。」


「いいと言っているだろう?桃くらい、いくらでも買える。モン・ペリエは桃の名産地なんだから。好きなだけ食べるといい。」


(なぁに、その言い方!)


少しカチンと来たリンだったが、目の前にあるツヤツヤキラキラした果実の誘惑には勝てず、


「そうですか、じゃあ、いただきます。」


と言って桃を頬張った。口の中に芳醇な桃の風味が弾ける。


「美味しい!」


思わず叫んでグッドマンを見上げると、有能な執事は口角をキュっと上げて、にっこりと会釈で応えた。そんな目と目で通じ合っているリンとグッドマンの様子を見て、アクセルは憮然とした。


(・・・どうして桃を譲った私ではなく、グッドマンを見るんだ・・・。)


自分の先程の態度が、リンをムッとさせる程度には失礼だったことなど気付くべくもない、お貴族様なアクセルである。一方、その様子を見ては、


(旦那様、先程のすすめ方、ダメダメでございますよ・・・。)


と、内心、アクセルの恋愛スキルの無さに目眩すら覚えるグッドマンである。

 しかし目の前のリンが蕩けるような笑顔で桃を次々と頬張るのを見て、見る見るうちに幸福な気分になったアクセルは、すっかり機嫌を直し、加えてほのかな妄想に耽った。


(ああ、出来ることなら己の手ずから食べさせてやりたい!どんなにか喜んで、嬉しそうに笑うことだろう。そうすれば、私にだけ、礼を言うことに違いない。)


アクセルの中で凶暴な愛情怪獣(モンスター)がガオーーーっと目を覚ました。


(桃ばかりではなく、手当たり次第にプレゼントを贈るというのはどうだろう?

 洋服にアクセサリー、靴にバッグ。去年、リンが着たようなセミオートクチュールではなく、正真正銘のオートクチュールを仕立ててやりたいものだ。どんなにかその身体の曲線が美しく映えることにことだろう!帰国する前に、首都のメゾンに連れて行こう。そうそう、左手の薬指にピッタリの指輪も外せないな・・・。)


しかしそんなアクセルの妄想の暴走を見抜いた優秀な執事によって、アクセルの中の愛情モンスターはあっさりと退治されることとなった。

 グッドマンは、アクセルの朝食の皿を載せたティーワゴンを、リンとは反対側のすぐ脇に寄せると、さりげなくアクセルに耳打ちしたのである。


「ま・ず・は、告白から、でございますよ、旦那様。プレゼントもスキンシップもましてやプロポーズも、二の次三の次でございます。」


スコールのようなプレゼント攻撃を喜び、自分の腕の中でニコニコと笑うリンの妄想でぼーっとしていたアクセルは、ハっとして現実に引き戻された。そして、なんとかその幸せな妄想をかき消して、まるでそんなことを一つも考えていなかったかのような表情を取り繕った。そうして新聞を畳むと、朝食に手を付けながら、昨晩、4人で練った計画に着手することにした。題して『湖畔の告白』。無論タイトルメイカーはミリアムである。


(グッドマンの言うとおり、まずはこの胸の裡を告白しないことにはなにも始まらないのだ。

 その機会を作る為に、わざわざリチャードとミリアムの二人は、今日、釣りに出かけてくれたのである。禁漁の解禁期間が今日までだったというのはまさに天の恵みだった!)


 そういうわけで、アクセルはおもむろに、朝食後はレ・バン湖畔の土産物街の散歩と、昼食にリンを誘ったのだった。


「じゃあ、今日は私におごらせてください、アクセルさん。」


トロリとした桃の果汁に唇を濡らしながら、リンが言った。桃の果汁がリンのサクランボのような赤い唇を、ツヤツヤした天然のグロスで艶めかせた。そのあまりに無防備でそれでいて妖艶な様子に内心身悶えしつつ、それを隠そうとするあまり、ひどく真面目などちらかというと不機嫌そうに見える表情で、アクセルは言った。


「なにをバカなことを。君は大切なゲストなんだ、リン。私は、ゲストに金を負担させるような、情けない男になるのは御免だ。」


「気にしなければ良いじゃないですか?」


「ダメだ。」


「・・・アクセルさん、私たち、友達ですよね?」


相手にしない様子のアクセルにリンは食い下がった。


「そうだ、な。うん、もちろん、友達だ。」


友達という言葉に、思わず有頂天になるアクセルである。そんな侯爵閣下に向かってリンは続けた。


「友達関係、っていうのはお与えられるばかりの関係ではありません。互いに与えたり与えられたりする、お互いを尊重し合う、そんな関係です。

 大丈夫、アルバイト代が予想以上に沢山入ったので、私、今、とても裕福なんですよ。ランチくらいなら、おごれます。そりゃ、アクセルさんがいつも行っているような高級なところは無理ですけど。

 いつもいつも面倒をみていただいてばかりで心苦しかったんです。だから!お礼も兼ねて、今日は私にごちそうさせてください!」


もとよりリンからそんなふうに懇願されたら、アクセルにはそれをはねつけることなどできるわけがない。少し俯いて、上気した顔で目を逸らしているアクセルの脇腹を、グッドマンがそっとつついた。すかさず耳許で囁く。


「旦那様、ご了承なさいませ。こんな些末事で意地をはって本題に入れなかったら元も子もありません。」


この場合の『本題』とは、無論、アクセルの告白のことである。こんなところで意地を張って、万が一にも、一緒に街に出るのを断られでもしたら、計画が初期段階でパァである。そんなことにでもなったら、折角、今日1日をリンと二人きりで過ごす為に協力してくれたミリアムとリチャードに申し訳が立たない。

 水蜜桃の果汁のせいで艶めかしいリンの口元ばかりが気になってしまい、習い性となっている貴族としてのエスコートマナーで、反射的にリンのせっかくの申し出を突っぱねようとしていたアクセルだったが、耳打ちされたグッドマンの言葉を聞いて慌てて肯いた。


「わかった。それじゃあ今日は、リンの言うとおりにしよう。」


「はい!ありがとうございます、アクセルさん!」


なぜだか分からないが、とにかく自分の『お礼をしたい』という申し出をアクセルが受け入れてくれたことに、喜びを隠せないリンが、花のつぼみがほころぶように笑った。もうそれだけでアクセルには十分だった。あまりの幸福感のせいで、まるで自分も水蜜桃をお腹までいっぱい食べたような心地さえしてしまうアクセルである。


「あ、桃、本当に良いですか?アクセルさんの分まで。とても美味しいですよ?」


「もちろんだ。沢山食べると良い。足りなければまた用意させる。」


「そうでございますよ、バクスター様。」


アクセルの、というよりはグッドマンの言葉に安堵したリンは、アクセルの分の水蜜桃に手を伸ばし、美味しそうに頬張り始めた。

 そんなリンの様子を横目で盗み見ながら、アクセルは自分のクロックムッシュにナイフを入れた。


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