37.ミリアムの憂慮
※11/3アップ直後、少しだけ言葉尻を訂正しました。話の筋には変更はありません。
「ーーお兄様、本気で言ってらっしゃるの?」
突然書斎に呼ばれ、アクセルからあまり要領を得ない説明を受けた後に発せられた、ディスカストス侯爵令嬢、ミリアム・ヘスターの第一声は酷く低かった。
「勿論本気だ。」
諸手を上げて喜びながら、協力を申し出てくれるだろう、というアクセルの目論見は見事に外れてしまったようだ。頼もしい味方になってくれるはずだった妹のその水色の瞳の中に、暗い影が浮かぶのを見て、急に喉の渇きを覚えたアクセルは、内心の動揺を覆い隠すようにコーヒーカップに口をつけた。
「ミリアムーー。」
ディスカストス侯爵兄妹の間に漂う雲行きの怪しさに、ミリアムの隣に座るリチャードがそっと口を開いたのを遮るように、ミリアムが思い切ったように顔を上げた。
「とても嬉しいわ。嬉しい。もちろん正真正銘、本心よ。
・・・無論、お兄様がリンにあんな酷い仕打ちをしたのは許せないし、忘れろって言われても無理だけど、リンのことを好きになって、しかも結婚まで考えるくらい、彼女のことを大切に思っているなんてーー。・・・でも私、どこかそれを期待していたような気がする。結婚までは行かなくても、お兄様もリンのことを好きになることを。いいえ、確信していたのかも。」
ミリアムは一言一言、自分の気持ちを確認するかのように丁寧に言葉を紡いだ。
「でもね、お兄様。私、この貴族社会っていうくだらない醜い世界に、リンを巻き込みたくない、って気持ちも強いの・・・。ここにいるみんなは良くわかってると思うけど。」
そういって少し俯いたミリアムの姿に、3人の男達は黙って沈痛な物思いに沈んだ。かつてアザリスの貴族社会にその心をじわりと苛まれ、辛苦を舐めた小さな小さな金色の髪の少女を守ってやれなかった、という事実に3人の男達の胸が痛んだ。
かつて自分自身の味わった辛苦をリンに味あわせたくないーー。ミリアムがそう思うのも至極当然の事と言える。学びの園という建前上、一応の平等が保障されているウィリアムズ・カレッジのような場でさえ、身分を嵩にきて、あれこれと差別的な言動を取る学生がいるのである。そんな人間達の温床であり、尚かつ、差別的な振る舞いや考え方が貴族というだけで黙認される世界、それがアザリスの上流階級であり、貴族社会なのである。
そんな人々のひしめく場所で、孤児であるリンがどんなイヤな思いをさせられるか・・・。ミリアムはそれを危惧して、最愛の兄の初恋に協力すべきかどうか、決めかねているのだった。
*-*-*-*-*
両親の死と、それに続く兄の多忙に伴いミリアムが入学させられた、アザリス上流階級の令嬢御用達だという、その名門寄宿学校は、ミリアムにとって地獄だった。互いの価値をブランド物の持ち物や爵位、裕福さやその財産の多加で決めつける価値観が横行する狭い世界。そこでは、誰も彼もがミリアム本人の内面も、知識も、大志をも見てはくれなかった。ただただ『ディスカストス侯爵令嬢』という身分、そして大金持ちで見目麗しい、結婚相手候補としてのアクセルの存在によってしか認識されず、それ目当てに近づいてくる人間しかいなかった。
両親に連れられて人生のほとんどを外国で過ごし、リベラルな教育を受け、コスモポリタンな人々の中で育ってきた天真爛漫なミリアムは、当初、仲良くしようと寄ってくる少女達の優しげな態度の裏に隠された、そんな思惑に気付くことができなかった。しかし、やがて学校生活の様々な局面でたくさんの失望と幻滅を味わうこととなった。
本当ならば、ミリアムが身体を壊す前に、アクセルは動くべきだった。しかし、丁度その頃、マネー・ゲームの世界へとその一歩を踏み出したばかりで精神的疲労が激しかったアクセルには、ミリアムと向かい合う時間がなかった。
そんな日々の中でミリアムは次第に元気を無くしていった。やがて感情が消え失せ、睡眠もうまく取れなくなり、睡眠導入剤が処方され『適応障害』という疾患名が下された時、アクセルは妹をアザリスから遠ざけることを決意したのだった。
留学先には大陸の東海岸に位置するルッジアが選ばれた。
母方の叔父夫婦が外交官として赴任していたこと、そしてなにより、ルッジアという国が、傷ついたミリアムの精神には過ごしやすい、良い静養地だろうことがアクセルの背中を押したのだった。
マイルドな自然環境の中で育まれた、和やかな文化と、侵略を受けたことが無いという歴史から育まれた、優しい民族性を持った人々が住まうという、ルッジア。なによりそこにはアザリスのような貴族階級が存在しないという。
アザリスにいると、どこに行っても何をしても『ディスカストス侯爵令嬢』という肩書きと好奇の視線から逃れられないミリアムも、身分制度の存在しないルッジアならば、ただの裕福な留学生で済む。そうして、ミリアムは大陸の東海岸へと旅だったのである。
やがてルッジアの全てにミリアムは上手く適応し、見る見るうちに回復していった。
その後、ルッジアで無事高校課程を修了したミリアムは、そこで出会ったインテリア関係の世界に魅力を感じ、アザリスに戻ってインテリア・デザイナーかバイヤーになる為の専修学校に進もうと希望を抱いた。
ところがアクセルがそれに反対。二人は真っ向から対立し、ミリアムが家出を目論むまでに事態は悪化したのを見て、ウィリアムズ・カレッジへの入学というソフトランディングな提案をし、強情を張る二人の間に立って仲裁を買って出てくれたのが、リチャードとグッドマンだったのである。
そんな二人の後押しと仲立ちを得たミリアムがアクセルをなんとか説得し、彼らの母親の母校であるウィリアムズ・カレッジならば進学しても良い、との譲歩をアクセルから引き出すのに1年。予備校に通いながら、2度の不合格を経て入学するまでに更に2年。通算で3年を費やして21歳でカレッジに入学したミリアムが、ようやく出会った『親友』と呼べる存在が、リン・バクスター、その人だったのである。
決して勉強好きでも得意でもないミリアムが、そこまでして諦めずに大学への進学にこだわったのには、貴族階級の社交生活だけに日々を費やし、一生働く気のないかつての寄宿学校のクラスメート達とまったく別の人生を歩みたい、という強い動機があった。
自ら働いて得た糧を元に自立した生活を送り、職業人生の中で地に足をつけた実直な人々と、誠実な人間関係を築きたい。ミリアムはそう、強く強く熱望し、日々学業に取り組んでいるのである。
そんな諸々の経緯を苦々しく思い起こしながら、ミリアムは言葉を紡いだ。
「お兄様と結婚するってことは、イヤでもディスカストス公爵夫人としての責務を課せられる、ってことでしょう?そんなことになったら、リンの夢は、お医者様になるっていう夢はどうなってしまうの?お兄様はそこのところを、きちんと考えたことはある?
なにより、リンは孤児なのよ?それをやり玉に上げられて、出自を論われて、イヤな思いをさせられるなんて・・・。私には到底、我慢できないわ。
気にしなければいい、なんて言わないでね?根拠のない差別意識を持った、低脳な人達のやることだからこそ、その毒性は強いのだから。」
「・・・。」
苦々しい表情をして黙り込むアクセルに、ミリアムは続けた。
「お兄様はリンの愛情を得られれば、きっと幸せになれると思うわ。私がそうだったから。
でも・・・、リンはどうなのかしら?お兄様と結婚して幸せになれるかしら?・・・私にはわからない・・・判断がつかないの。」
そんなミリアムに、アクセルは真剣な眼差しで言った。
「正直な所、私にだって確実な所はわからないよ、ミリアム。ただ、一つだけはっきりしていることがある。」
「それは、なに?」
「私はリンの笑顔を守る為には、なんでもする、ということだ。
その為には、ありとあらゆる悪意から、攻撃から、リン自身を、リンの人生全てを私が守ってみせる。」
「本気なの?お兄様。」
「ああ、もちろん本気だ。私とて社交界には辟易している。どうしても外すことのできない夜会以外は、一切参加していない。お前だって知ってるだろう?」
アクセルはミリアムの眼を覗き込み、次いでグッドマンにミリアム達のティーカップを差し替えるよう指示した後、続けた。
「なに、なんなら爵位なんぞ、返上しても良いんだ。そうすれば、貴族社会との縁もすっぱり切れるというものだ。そうだろう?グッドマン。」
「御意。」
「あ、アクセルさん!アザリス建国当時からの名門中の名門であるディスカストス侯爵家を断絶させるつもりですか?!」
「ははは、リチャード、慌てるな、慌てるな。単なる冗談だ。」
「はぁー、良かった。そんなことになったら、うちの両親をはじめ、女王陛下にまでハーズバーグ男爵はいったい何をしていたんだ、って大目玉を食らうとこですよ?」
冗談めかして言うリチャードだったが、話の中身は心底本気である。無論アクセルも本気でそんなことができるとは思っていない。その程度には、ディスカストス侯爵家の重要性をわかっている。
「ふふっ。わかったわ、お兄様。」
「それじゃ、協力してくれるんだな?ミリアム!」
「ただし!リンの意志が最優先よ?横からちゃちゃを入れるつもりはありませんからね?いい?
私もリチャードもあくまでお兄様とリンが二人きりになれるようにしてあげる。協力するのはそのくらいよ?」
「十分だ。」
そう言って自信満々で満足そうに指を組むアクセルを尻目に、グッドマンは言った。
「お嬢様、僭越ながら、もう一点だけよろしゅうございますか?」
「もちろんよ、なに?グッドマン。」
「もしもーーバクスター様が旦那様の気持ちを知って悩んでいらっしゃるご様子でしたら、私に相談するように、一言、言って差し上げて欲しいのですが。」
「なになに?リンに、何と言うつもりなの?グッドマン!」
「僕も知りたいなぁ!」
「私も知りたいぞ。」
「無論、旦那様の気持ちを受け入れていただけるよう、誠心誠意お話しさせていただくのです。」
「なぁんだ、それだけ?お兄様の影の恋愛コンサルタント、グッドマンのことだからどんな魔法の一手を打つのかと期待したのに。」
ミリアムが残念そうに言ったところで、その場は笑いに包まれた。
こうしてモン・ペリエ、レ・バン湖の第一夜は更けていき、当の主役であるリンだけが、自分の未来に関わるこの企みを知らないまま、美しい夜空の下、デューランズ語とにらめっこをしていたのだった。




