表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
35/152

35.恋に落ちた侯爵閣下


 昼食後、予定通りモン・ペリエのマリーナを出航した運河下り用の小型クルーザーは、ディスカストス侯爵一行を乗せ順調に走った。操舵を引き受けたリチャードは、安全運転でありながらスマートな操縦でうまく他の船を避けては水の抵抗を読んだ。そのため、3時間ほどの航行は、とても順調に終わった。

 その一方で、結局その間、アクセルは自室にこもったまま甲板にあがってくることはなかった。


「お兄様ったら、バカンスに仕事を持ち込むなんて、ひどい!」


ミリアムはそう言って口をとがらせた。


「ははっ!そりゃあ、アクセルさんはディスカストスグループの総帥だもの、ミリアム。彼の決済がどうしても必要な案件だってあるさ。」


リチャードは取りなすように言った。


「今までだって、君の眼の届かないところで仕事はしていたんだよ。」


「あら心外だわ!リチャード。私だって、ただ文句を言ってる訳じゃないわよ。ただ・・・お兄様の身体のことが心配なだけ。」


ミリアムはそう言って眼を伏せた。


「お兄様は・・・とにかくお休みが少なすぎると思う。あんなに沢山お仕事をしなくても・・・。それに、あんな風に自分で何もかもやろうとしなくてもいいのにねーー。

 任せられる人材を育てることが出来ないリーダーは、本当の意味で優秀なリーダーとは言えない。お父様だって、そう言ってたわ。」


「お父様って、無くなった先代の侯爵閣下?」


リンが合いの手を入れる。


「そう。ふふふ、豪快で面白くて。そうね、お兄様とは正反対だったわね。

 口癖のように『ディスカストス侯爵家には放浪の血が流れている』って仰っては、グッドマンと私たち家族を連れて世界中あっちこっちみんなで旅行してばっかりいたわ。楽しかった。幸せだったわ。

 そりゃ、事業は今お兄様が手広くやってるのに比べれば小規模だったと思う。でも家族で過ごす時間は、間違いなくたっぷりあった。私たちはいつも一緒だった。」


そこまで言ってミリアムは眼を伏せた。


「分かってはいるのよ?お兄様の仕事を他の人に任せておけない、って気持ちは。

 実際、お父様が亡くなった時分に信頼して運用や事業を任せていたいた人達のうちの何人かが会社を辞めたり、株を売り払って株価の下落に加担したりしたらしいし、中には財産をかすめ取ろうとした人もいたっていうし。

 そのせいでお兄様はなんだかすっかり人間不信になってしまって、事業に関しては、なにもかも自分で眼を光らせていなければ気が済まない人になってしまって。

 そうして仕事が命!の仕事中毒者(ワーカホリック)の一丁上がり!ってわけ。」


リチャードもそこらへんの事情を知っているのだろう、切なげなミリアムの手を取ると、ギュっと握った。

 一方リンは、なんとなく、アクセルの自分に対する過剰反応とも言うべき忌避感情に改めて納得がいった。ミリアム、ひいては自分やディスカストス侯爵家を食い物にしようと近づいた貧乏人、とアクセルが見当違いの思いこみでリンを糾弾したのには、かつてそういった手合いからひどい裏切りを受けた経験が背景にあったのだろう。

 両親が死に、小さな妹を守らなければならなかったアクセル。でも彼だって、当時はまだ少年と呼ぶべき年齢で、彼自身だって守ってもらう側だったはずなのだ。それなのに、周囲の悪い大人によってたかって財産を狙われ、しかも為す術もなかったに違いない。プライドの高いアクセルのことだ、きっとその無力感、挫折感には相当のものがあったことだろう。どんなにショックを受けたことだろう・・・。リンの頭の中に小さなアクセル少年が途方に暮れて、泣くこともできず、どこにもぶつけることのできない怒りを抱えたまま、立ちつくす様がありありと浮かんで、胸が痛んだ。

 無論リンとて天使ではない。アクセルから受けた仕打ちを全て忘れることなど出来そうにない。あの日、ウィリアムズ・カレッジの面会室で投げつけられた言葉によって抉られた胸の痛みは、それまでの人生でつけられ、大学という平等な環境に馴染むことでようやく癒えつつあったリンの心の傷口に、再び血を滲ませたのは確かだ。

 それでも、去年の夏のことといい、先日の懺悔のような告白といい、今日の甘く優しい心遣いに溢れた態度といい、アクセルに対する悪い印象は、リンの中でどんどん薄くなりつつある。アクセルの事を知れば知るほど、かつて抱いていた『遠い世界の人』であるとか『何を言ってもムダな差別主義者』とのステレオタイプな印象を持ち続けることは難しくなってしまった。


(私は信じても良いのかも知れない・・・いいえ、信じたいと思っている。閣下に対する自分の直感を。あの雨にけぶる海のように葛藤を抱え、そして、空を映した水銀のように美しい瞳を。あの朝、私と友人になりたいと(おっしゃ)ってくださった閣下の言葉を。)


運河を抜けたクルーザーはレ・バン湖水を滑るように進む。

 甲板の手すりにその身をまかせ、リンはその水面にキラキラと反射する夏の日射しを眺めながらそんなふうに思うのだった。


*-*-*-*-*


ドンドンドン!


「アクセルさーーん、着きましたよ!」


リチャードの声が聞こえて、アクセルはうつらうつらした微睡みの中から浮上した。どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい。キャビンの小さな丸窓から差し込んでいる光はすでに夕闇のオレンジ色を宿していた。


「今行く。」


軽く身体を伸ばしながら甲板に出ると、ミリアムがコテージの管理人とそのポーター達に荷物の搬出を指示している横で、リンが夕焼けに見とれている姿が目に入った。

 少し躊躇(ためら)ってから、その隣に並ぶ。


「どうだい?美しいだろう、ここの夕焼けは。」


内心、心臓が激しく鼓動を早めていることを気取られない程度に、至極自然な声が出たことにホッとしながら、アクセルはリンに話しかけた。


「本当にーー。本当に、美しい。今日は綺麗なものばかり見せて貰って、本当に良い日でした。」


「綺麗なものって?リン?」


「夕焼け、運河や湖の水面に反射する陽の光、モン・ペリエの町中の緑と白のストライプ、美味しかったパエリアの鮮やかな黄色、そしてーーー。」


「・・・そして?」


「・・・いえ、なにもかも美しかったし、クルーズもとても楽しかったです。残念でしたね、アクセルさん、お仕事でこもらなければならなかったのは。」


リンが何かを言いそうになって、それを慌てて言い換えたことがわかったが、アクセルは特に問いつめようとは思わなかった。ただただその、気持ちの良い夏の夕風と辺りを真っ赤に染め上げているレ・バン湖の夕焼けを、大好きなリンと並んで眺めていられることに、激しい動悸と共に暖かな幸せを感じていたからだった。


*-*-*-*-*


 そう。アクセルはとうとう気付いた。自分がリンに恋をしている、ということに。この午後の時間、クルーザーの居室で、リンに対する数々の非礼と行動を一つ一つ思い返しては、身悶えするような後悔に打ちひしがれていたアクセルなのである。


(どうして今まで気付かなかったんだーー。)


アクセルは自分で自分が信じられない気持ちでいっぱいだった。しかし、こんなふうな気持ちになるのは初めてなのである。自覚したのもつい先程である、という自らの体たらくにアクセルは自嘲すると共に、リンの事を思い出し、交わした会話を反芻しては、微笑み、また、自分の愚か加減に打ち震えた。

 そんなアクセルの姿を他人がみたら・・・おそらく仕事のしすぎで少しおかしくなったと思っただろう。一足早くクルーザーに戻り、しばらくデスクに向かって物思いに耽っていたと思ったら、頭をかきむしり部屋の中をウロウロと歩き回り。何かを思いだして顔を真っ赤に染めて立ち止まったかと思えば、次の瞬間には真っ青な顔でベッドの上に座り込んだ。

 最終的にはベッドの上に倒れ込み、ズキズキと痛むその心臓の上に右手を添え、ポロシャツのポケットをギュッと握りしめ、左腕で両目を覆ってその日の午後のリンの様子を、最初から最後まで何度も何度も繰り返し頭の中で再生した。


(リンは、少なくとも私に好意を持ってくれている・・・と思うのだが、どうだろう?)


正直よくわからないアクセルである。

 なにせ、いつでも人に囲まれ、寄りつかれてきたのだ。好意は常に、相手の方から示されるものであり、時には諾々と受け入れ、また時には手酷く拒むだけで良かった。そこには、なんの葛藤も存在しなかった。相手がアクセルに向ける打算または媚の度合いと、そこから生じるなんらかの利益を天秤にかけ、メリットがある、と判断すれば答えるし、ないと判じれば断る。それだけのことだったのだ。

 男でも女でも、誰かがアクセルに近づく時、その目的はいつだってアクセル本人とは別のところにあった。ビジネスの場であれば、アクセルの持っている莫大な資産と事業に。他方、社交の場であれば爵位とその美貌に。

 アクセルは今まで自分が多少なりとも関わったことのある女性の顔とそのやりとりを思い出そうとしたが、どうにもうまくいかなかった。そして、そんな自分の恋愛ーーともいえない恋愛遍歴に苦笑した。

 彼女らは、最初の内はアクセル本人の魅力に惹かれたフリをしていたが、そのうちに本性を(あらわ)してあれこれと要求を突きつけるようになった。宝石、ドレス、社交界のパーティでのエスコート。究極の目的は結婚であることは、全ての女性に共通していたから、相手がそんなふうなことを匂わせたり、既成事実を作ろうと躍起になると同時に、アクセルは速やかに身を引いたものだ。

 大抵の場合、アクセル本人がそんな関係の終止符を打ったり後始末をつけたりすることは稀で、グッドマンがその役を任じた。そういう意味でも、グッドマンには頭が上がらないし、心の底から信じられる、頼りに出来るのは彼しかいない、と、アクセルは思っているところがある。

 そんなアクセルにとって、この、リンに対する想いは正に生まれて初めての感情の動きであり、どうにも扱いかねる未知の出来事で、自分一人では立ち向かうには荷が勝ちすぎる案件だったのである。


(グッドマンだ・・・。とにかくこういうことはあれに相談するに越したことはないだろう。)


何度目かの堂々巡りの思考に、アクセルはそう結論づけ、ようやく落ち着きを取り戻した。


(コテージに着けば、グッドマンがいる。)


そう思いつつ、やがて疲れ果てたアクセルはクルーザーの絶妙な振動と揺れに誘われ、深い午睡(ごすい)に落ちたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ