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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
34/152

34.空を映した水銀の瞳

 食事はつつがなく進んだ。

 デザートは外国から特別に取り寄せているという、デューランズでは珍しい『ユズ』なる柑橘類のシャーベットが出された。

 食後の紅茶が出されると、リチャードを伴ってミリアムは席を移した。なんでも、これが最後の学生時代のバカンスになるというリンの為に、特別な遊びの計画を立てるのだという。本当ならば、アクセルも参加したいところだったが、リンを一人で放っておくわけにもいくまい、と後で二人の計画を聞くに留めた。

 運河を見下ろす側の手すりにほど近いカフェテーブルに移った二人が、頭を寄せてなにやらヒソヒソ、くすくすと話し始めるのを眺めながら、アクセルとリンは少量のシャンパンと満腹感から来るけだるさに身を任せ、しばしぼんやりと景色を眺めた。

 蒼い蒼い、抜けるような雲一つ無い空の下に、運河の周りに植えられた菩提樹の並木道が見える。デューランズでは、ここモン・ペリエと首都圏を水運の為に運河でつないでいるが、夏のバカンスシーズンになると一気に舟数が減る。その減収を埋め合わせる為に、運河を管理する団体が、一般市民に格安で運河を解放するのである。

 リンとアクセルの席からわずかに視界に入る運河には、様々なサイズの運河下りの船が浮かび、さながら夜店の船釣りのようだった。


(孤児院の子供達と出かける移動遊園地で見た舟釣りみたい。みんなやりたがるけど、お金が無くてやらせてあげられなくて。泣いてねだる小さな子供達を宥めるのが大変だったなぁ。)


リンはそんなことを考えながら、その楽しげな光景を眺めた。

 そんなリンがふと視線を感じて横を見ると、アクセルが自分をじっと見ているのに気付く。その眼差しには、これ以上ないと言うくらい甘く優しい色が湛えられているような気がして、リンは急に気恥ずかしくなり、瞳を伏せた。


「美味しかったですね?」


沈黙を埋めるようにリンが言うと、アクセルはにっこり笑って


「楽しんでくれたなら、良かった。」


と答えてくれた。リンのクセのない黒い髪が川風にまき上がった。リンは手首に付けていたシュシュでそれを襟元で一つにまとめると、なんとはなしに、アクセルの横顔を眺めた。

 光の加減で、アクセルのその、特徴的な瞳の色がよく見える。銀色をした瞳の周りを彩る虹彩に、空の青が溶け込み、まるでアクアマリンのような薄い薄い水色に見える。それはリンの見たことのない、不思議な不思議な色合いだった。


「・・・どうした?リン?」


急に黙り込んで自分の目をじっと覗き込んだリンに、アクセルは問うた。


「あ、ええ、アクセルさんの瞳ってこんな色だったかな、って思って。綺麗ですよね。不思議な色。こんな不思議なアイスブルー、見たこと無い。まるで水銀を流し込んだみたい。」


「水銀?ははっ、それじゃあ、まるでアンドロイドか人形だな。」


アクセルは少し自嘲的に言った。アクセルはこの自分の冷たい印象を与える瞳があまり好きではない。ところがリンは『綺麗』『不思議な色』とまるで賞賛してくれているかのようで。そんな言葉に慣れないアクセルは、つい、卑下するような言葉を返してしまう。


「そうですね。」


ところがリンにそう肯定されてしまうと途端に胸が痛んだ。


(リンにとって、私は物珍しい人形のようなものであるということか・・・。)


しかし、更に続けられたリンの優しい言葉にアクセルは有頂天になってしまった。


「でもアクセルさんは人形らしさなんてどこにもない、とても人間らしい、暖かい方です。それに、どんな人形師であってもこんな瞳は作れないと思います。本当にきれい・・・。」


一方、まるでアクセルの瞳の魔法にかけられたかのようにぼんやりと、本音を言ってしまってからリンは急に我に返り、恥ずかしくなってしまった。


(・・・私ってば、これじゃまるで女性を口説くプレイボーイみたいじゃない?)


リンは、なんとなく自分たちの間に発生しつつある『甘い緊張感』とでも言えそうなムードをかき消すかのように、慌てて続けた。


「ま、アクセルさんは瞳だけじゃなく、顔から身体の骨格から筋肉の付き方まで、完璧ですよね。さすが、アザリス社交界一の色男!って感じ。」


それに答えて、アクセルはリンの方へ向き直り、そして言った。


「本当に、そう、思う?」


甘い甘いバニラの匂いがするようなバリトン。今まで幾人もの女性が陥落してきたアクセルの最終兵器である。

 しかしリンはもう、アクセルの言葉を聞いていなかった。その目はアクセルの顔に吸い寄せられ、ただぼんやりと物思いに沈んでいた。


*-*-*-*-*


 運河から吹き上がってくる風がアクセルの茶銀(サンディブロンド)の髪を乱し、前髪が額に落ちて、いつもよりも若々しく見せている。

 その下にある、リンを魅了してやまないその不思議な瞳には、困惑しているような、喜んでいるような、また、不安を感じているような・・・そんな不思議な表情が浮かんでいた。

 すっと伸びた滑らかな直線を描く鼻梁。それに続く肉厚の唇は持ち主の限りない愛情深さを感じさせる。無論、リンはその愛情深さをよく知っている。彼が妹に向ける限りない愛情によって。

 口角がほんの少しだけ上がり、また、わずかに開いているせいで、微笑んでいるように見えるその唇を眺めていたら、リンの脳裏に


(キスしたら、気持ちよさそうな唇だな。)


等という不謹慎な考えが浮かんで消えた。

 と、リンの目の前でアクセルの前髪が川風になぶられてより一層乱れた。水に濡れた時も思ったが、そんなふうに前髪を降ろしてしまうと、アクセルはぐっと若返って見えた。そのせいで余計に少年っぽく見える。

 そうなってしまうと、リンの中ではもう『途方に暮れた少年』以外の何者にも見えなくなってしまう。


(ああ、髪の毛があんなに乱れてしまって。)


 そうして知らず知らずのうちに、リンの手が伸びた。更に、その乱れた髪を額から右耳の上まで梳き整え、そのままそっと耳にかけてやる。それはまるで母親のように慈愛に満ちたふうにも、また、恋人の官能を呼び覚ます為の艶っぽい誘いのようにも取れる行動だった。当然、リンの中に沸き上がっているのは母親のそれである。しかし、そのどこかには、初めて感じるなにかが含まれているのを感じて、リンは瞬いた。


(なんなんだろう?この、ぽかぽかした気持ちは?)


今、この瞬間、感じているざわざわとしてそれでいて暖かな気持ち。横隔膜の中心辺りがキュッと引っ張られるような、不思議な感覚。


(まただわ・・・。閣下は私よりも11歳も年上で、大人の男性なのに・・・。どうしてだろう?少年にするのと同じようなことをしたくなってしまうのは・・・?そしてなんなのだろう?この心臓の辺りをギュウっと絞られるような感覚は?)


それは、リンにとっては生まれて初めてのものであり、また、同時にひどく落ち着かない気分にさせられた。さもありなん、どんな人間にとっても『自分の気持ちがわからない』というのは、落ち着かない気分になるものである。


 一方アクセルはと言えば、髪の乱れを直そうとしたリンの指が、思いがけず耳朶の敏感な部分にそっと触れた瞬間、全身にビリリと電流が走ったようになって、身体がビクリと震えてしまった。そしてその一瞬の間に、アクセルの脳裏に白昼夢が走ったのである。

 その夢の中で、アクセルはリンのその手を掴み、指先一本一本に口づけを落とし、その指を口に含み、指の股に舌を滑らせ、そして・・・、そして・・・。アクセルの有能な頭脳はそこから先のビジョンを、あり得ないほどの明確さとリアリティを伴って再生した。たった半瞬、時間にすれば0.5秒程度の刹那だった。しかし、アクセルが自らの願望に向き合うには十分すぎるほど十分な時間だったのである。


ガタン!


 運河を見下ろしながら、この4日間の計画を楽しそうに話し合っていたミリアムとリチャードは、突然背後から聞こえた物音に驚いて、振り返った。

 そして、二人は見た。倒れた椅子を直しもせずに、走り去るアクセルの後ろ姿を。


「リン、なに?!どうかした?!」


ミリアムが心配して駆け寄って言った。


「うん、大丈夫。なんでもない・・・と思う・・・んだけど。」


特に異変はないように、ミリアムには感じられた。リンもいつもの通りにしか見えない。多少頬が赤くなっているが、それはシャンパンのせいであろう。ミリアムはそう単純に結論付け、この年下の親友の傍らに寄り添った。リチャードが倒れた椅子を起こしながら、訳が分からないという意思表示に、眼をぐるりと廻した。


「お兄様ったらあんなに慌てて・・・。リン、なにかあった?」


またなにか、尊大な兄がリンになにか不愉快なことを言ったのではないか?心配しているミリアムである。そんな親友の腕に手をかけながら、リンは


「なんでもないわ、ミリアム。」


と宥めるように答えた。それでも不思議そうに小首を傾げるミリアムを安心させようと、


「化粧室じゃないか?会話に夢中になってつい、ギリギリまで我慢してしまう、っていうのは良くあることだし。」


と、少しおどけたような口調で、リチャードが言う。

 そうして腑に落ちない様子ながらも、ミリアムとリチャードの二人が元来た位置へ戻ってしまうと、リンは再び物思いに耽った。


(あの時私と閣下の間に生まれつつあったあの、親密で甘い『なにか』・・・。あれはいったいなんだんだろう?)


 やがて、そろそろレストランを出る段になってもアクセルは戻らず、全員のスマートフォンに『仕事で重要なメッセージに返信する為、先にクルーザーに戻っている』とのメールが入るに至って、


「お兄様ったら・・・、いったいどうしたのかしら?」


と、兄の常にないおかしな様子に、小首を傾げるばかりのミリアムなのだった。

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