32.レストラン『アルズィユ』
「リン!こっち、こっち!!」
大学の門を出ると、すぐに声が掛かった。そちらを見遣ると、ミリアムがぴょんぴょん飛び跳ねながら両手を頭の上で振っているのが見える。
「ミリアム!」
リンは負けじと大声で応えると、そっちの方へと駆けだした。すかさずミリアムと力一杯ハグしあう。ぽっちゃりとしたミリアムの身体はとにかくふんわりと柔らかく、抱き心地が良い。リンの方が少し背が高いので、上からのぞき込むように両頬にエアキスをしあうと、
「いやだ、リン、あなた少し痩せた?」
とミリアムがまるで母親のように顔を顰めた。
「まあね・・・。それがひどいのよ、ドクター・ブルームったら!聞いてよ、ミリアム・・・。」
話出そうとしたリンの手から、その荷物を奪って話の腰を折ったのは、ハーズバーグ男爵リチャードその人である。
「リン、久しぶり!さあさ、話は車の中にしてよ!こう日射しが強いんじゃ、僕たちみんな黒こげになってしまうよ。」
「リチャード!お元気そうで嬉しいわ!!」
いたずらっぽく笑うリチャードともハグとエアキスを交わし、リンはさりげなくアクセルを探した。しかし侯爵閣下はどうやら出迎えには来ていないようだ。
「さ、乗ってリン!レストランの予約に遅れちゃう!」
「ええ!」
そうしてリンは、ミリアムに急かされながらタクシーに乗り込んだ。
モン・ペリエのタクシーは観光協会のお達しで、そのほとんどが白と緑の縞模様である。この色の組み合わせは市内のいたるところで見られ、カフェの立ち並ぶ中心部の歩行者専用エリアなどは、右を見ても左を見ても、緑と白の縞々に覆い尽くされていた。
やがて車は、少し混み気味の幹線道路を抜け、細い裏道と運河に面したこぢんまりとした食堂の前で停まった。
「店構えは小さいけど、ここは知る人ぞ知る地元の名店なの。しかも、星はついてないけど、ミシュランガイドに載ってるのよ。」
自慢げに先導するミリアムが、店内をまっすぐ奥まで突っ切ると、裏口のすぐ脇に狭い階段があった。人一人しか通れそうにないその階段を上っていく。2回折り返して見上げた先に、ポッカリと空いた四角い出口から、モン・ペリエの蒼い蒼い空が見えた。
「わぁっ!」
狭い階段出口から顔だけ出して、思わず感嘆の声を漏らすリンの眼前に、手がさしのべられる。
「ようこそ、リン。青空レストランへ。」
聞こえてきたのは、ベルベットのようなバリトン。包み込むような笑顔でのぞき込んだのは、ディスカストス侯爵、アクセル・ギルバートその人であった。
*-*-*-*-*
モン・ペリエの下町で有名な老舗のシーフードレストラン『アルズィユ』の屋根の上、屋上テラスに設えられた特別席は、給仕に4人の料理人が貼り付きになることから、滅多なことでは予約を取らない、極々特別な席であった。
しかし、外遊をその生涯のテーマとして来たディスカストス侯爵家の代々の当主達はこのレストランをこよなく愛し、戦時中を含め後ろ盾の手間を惜しむことがなかった。
そんなわけで、モン・ペリエにきたら、必ずここで食事をするのがディスカストス侯爵家のならいとなっており、店主にとっては非常に名誉なことなのだった。
モン・ペリエの強い日射しを遮るためのパラソルは、無論、白と緑の縞模様である。人がざっと20人は上がれそうな広いテラスには、丸いテーブルが一つだけしか置いていない。つまりここは、ランチタイム及びディナータイムそれぞれ限定1組の特別席ということになる。
そんな上流階級ならではの夢のような空間を背景に、リンに向かって微笑むアクセルの笑顔はものすごい破壊力で、リンはすっかりノックアウトされてしまった。さもありなん。この日を心待ちにしていたアクセルは特に上機嫌だったのだから。ただでさえ魅惑的な容姿に、心の底からの喜びが満ちあふれて、いつもの5割り増しのハンサムぶりである。
相変わらず恋愛感情にもそういった方面の感情の機微にも疎いリンではあったが、流石にその笑顔には見惚れてしまった。次いでなにやらカーッと顔が熱くなってくる。
(な、なになに?!なんなの?どうしちゃったの、私!?)
階段から屋上に出ようとしたところでアクセルに見惚れてしまい、突っ立っていたリンの右手を、アクセルが至極当然というようにその手に握りこんだ。
「えっ、あの・・・!」
「ほら、こっちだ、リン。まずはシャンパンで乾杯しよう!」
アクセルに手を引かれてほとんどつり上げられるように一気に階段からテラスに出たリンの全身を、気持ちの良い川風が吹き抜けていった。
「わぁっ!!」
(気持ちいい!)
「ははっ、気持ちが良いだろう?この席で一番のもてなしはこの運河から吹き上がってくる気持ちの良い川風なんだ。」
アクセルはリンの柔らかな手をギュッと握りながら言った。本当は指を交互に絡めて握りたかったが、ミリアムとリチャードの手前、自制したのである。
一方、リンはといえば、まるで太陽を背負子にしているようなアクセルの輝かんばかりの笑顔に面食らってしまい、言葉もなくただ頷きながら手を引かれてテーブルにつくことしか出来ずにいた。
「お兄様ったら、リンのこと、ちゃんとエスコートしてあげて?そんな風に手をつないで、まるでちいさな子供扱いね?
ね、リン、参っちゃうでしょ?お兄様は年下の女性とみるとすぐ、子供扱いするんだから!」
ミリアムのいたずらっぽい視線に慌てて自分から手を離すと、リンは少しホッとした。
(妹!妹ね、うん、そうか。妹扱いなら、納得だわ。)
「嬉しいわ、私には家族がいないから。アクセルさんみたいな方がお兄様になってくださるなんて!こんなラッキーなことはないわね。」
「もちろんよ、リン!私たちは姉妹みたいなものじゃない?そんな私のお兄様は、あなたのお兄様でもあるのよ?」
「おいおい、ひどいなぁ。僕のこと、忘れてない?」
「やだ、リチャードったら!もちろん、あなたもリンのお兄様よ?私たち、みんな、仲良し兄妹ってわけね?」
ミリアムが弾けるように笑った。
「・・・。」
アクセルはそんな楽しい空気に水を差さないよう曖昧な、しかし先ほどよりは少し翳りの見える微笑みを浮かべ、聞き役に徹していた。
(リンにとって私は『兄』、か・・・。)
なんだか少しイラっとしているアクセルである。しかし、その苛つきの正体にはまだ気付くことができず・・・。この4日間焦がれ続け、ようやく会えたリンが、何故か自分の方をあまり見てくれないことに、更なる苛つきを感じてしまうのだった。




