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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
3/152

3.最悪の初対面

 ディスカストス侯爵が訪れるたび、カレッジはちょっとしたパニックに襲われる。

 車が車寄せに入ってくるのを見張り、知らせる係。侯爵が面会室棟に入るのを確認する係。そして、大面会室のどこに案内されたかを確認する係、と役割分担がされるなど、驚くほど統制がとれている。噂では、「ウィリアムズ3悪」と影で呼ばれている、玉の輿を狙う性格の悪い3人組が取り仕切っているらしい。


 そんな騒ぎに巻き込まれて、どんなとばっちりを食うか分からなかったからこそ、噂の侯爵閣下が親友の兄君であっても、無用の接近と関心を持つことを慎重に避けてきたつもりだったのに・・・。ミリアムから借りた着慣れないブランド品を身につけたリンは、ミリアムの懇願と、そこまでみんなが騒ぎ立てる侯爵を見てみたい、という自分の好奇心に負けてしまったことを、今更ながら悔やんだ。


「またお兄様目当ての人達が3ダースも着いてきているわ。」


ミリアムがウンザリした様子でつぶやく。侯爵が来るのは決まって月の第2土曜日だったので、この日はどの学生も外出せず、ハンサムな侯爵を見たり、あわよくば同じテーブルで自己アピールのチャンスを得るのを楽しみに、ミリアムの後をぞろぞろとついてくるのだ。そして、タイミングを見計らって「ご一緒して良いかしら?」とミリアムとその兄の座るコーナーに座り込み、ミリアムそっちのけで自己アピールに血道をあげるのであった。


「いっそのこと、お金を取ったら良いんじゃない?」


リンが茶目っ気たっぷりに言うと、


「ダメダメ!お兄様にこっぴどく叱られちゃうわ!お兄様は私が働くとか、お金を稼ぐって話をすると、途端に機嫌が悪くなるのよ!今時、大学を出てすぐに結婚なんて、ナンセンスなのに、すっかり結婚させる気でいるんだから!もう、婚約者まで用意してあるのよ?イヤんなっちゃう。」


「え?どんな人?」


初耳だった。


「えっ・・・あ・・・うん・・・。まぁ、いい人よ、リチャードは・・・。」


「リチャードさんっていうの?まあ、ミリアム!素敵ね!お仕事は何をしていらっしゃる人なの?」


「・・・父方のはとこなの。小さい頃から知ってるし、兄の事業を手伝ってるから、よくうちにも来てるし、うん。とてもいい人よ、リチャードは。」


目を逸らしながら、もぐもぐとしゃべるミリアムの頬は、真っ赤だ。その様子から、ミリアムがリチャードのことを憎からず思っていることは、すぐにわかる。リンは思わずほくそ笑んだ。なんだかんだいっても箱入り娘のミリアムにとっては、そうした身近な男性と結婚し、裕福な暮らしが続いていくことが幸せに決まっている。そうした意味では、リンは彼女の兄と同じ考えだ。ただし、精神的にも甘やかそうという彼女の兄に対して、リンのほうは精神的には自立しているほうが良い、という考えだが。


「リチャードさんって、どんな方?髪の色は?茶色?黒?何歳なの?」


その後、うまくミリアムにしゃべらせる方向へ話題をふって、リンは緊張を紛らわせた。


 そうこうしているうちに面会室棟に隣接する、リリーナ礼拝堂の美しい尖塔が、トウヒの遊歩道の向こうに姿を現した。

 面会室はリリーナ礼拝堂に隣接の施設で、外部から訪れた生徒の家族や知り合いが、ゆっくりとお茶を飲みながら話ができるように作られている。大人数が部屋のあちこちで談笑するタイプの「大面会室」と、各家族が個別に使える、小さいリビングルームのような「小面会室」にわかれている。

 今日の侯爵とその妹の面会が小面会室で行われる(=招かれない限り入ってこられない)と知った多くの侯爵目当てのグルーピー集団は、ブツブツ文句を言いながらも、面会室棟入り口でその日の割り込みをあきらめざるを得なかった。


「ミリアム・ディスカストスですね。ディスカストス侯爵がお待ちですよ。」


面会室棟を取り仕切るシスターが柔和な物腰で先導する。リンの緊張は頂点に達していた。ミリアムから借りた昨シーズンのレーヨン混のジャージィワンピースに羽織ったシルクストレッチのノーカラージャケットが急にきつく感じられる。それまで気にならなかったのに、突然胸のふくらみが気になり始めて、首に巻いた若草色のシフォンストールを前身頃にかき集めた。慣れない7cmもあるピンヒールのロングブーツが急に頼りなく思えてきて、転ばないように集中しようとするが、なかなか集中できなかった。


「ミスタ・ディスカストス、妹さんと妹さんのお友達がお見えです。」


シスターがノックの後に告げる。そして、リンは室内のソファに座って足を組み、物憂げに視線を上げた侯爵を見た。


*-*-*-*-*


 目があった瞬間、何故かリンが思い出したのは、生まれ育った孤児院の裏手の崖から眺めた、雨の日の海だった。侯爵の瞳の色は、雨の日の海の色に似ていた。深く、そして厳しさと激しさを秘めた深い水の色に。

 印象的なのは瞳だけではなかった。髪の毛が珍しい色だと思った。アッシュブロンドに近いサンディブロンドというのか、灰色味と茶色味の入った砂のような色に見える。やっぱり雨の日の荒れた海のような色だと、リンは思った。

 瞳の色も、髪の色もある意味老成して穏やかな印象を与えるのに対して、少し日に焼けた肌には張りがあり、がっしりとした肩と190cmに届こうとする長身を一目でオーダーメイドと分かる高そうなスーツに包んでいる様は、いかにもエネルギッシュに事業に取り組むエグゼクティブであり、この国の特権階級らしい威風堂々としたオーラを感じさせる。

 ただ、不思議とリンの中に彼に対する怯えは感じられなかった。アクセル・ギルバート・ディスカストスがリンに与えた最も大きな印象は、何かを押さえ込み、表面的な理想を演じることで成り立っている、「嘘つきな子供」というものだった。


(こんなに立派な大人の男性に対して、どうしてそんなふうに感じるのだろう・・・?)


リンは即座に自分の直感を否定した。が、一度頭の中に立ち現れたイメージを消すのは容易ではなかった。次にリンの中に想起されたのは、驚くほどの母性本能だった。この嘘つきな子供の嘘の向こうにある、本当の彼に会ってみたい。嘘で塗り固めたペルソナで守っている、傷を癒してあげたい。そんな思いが、一瞬のうちに嵐のようにリンの中を駆け抜けていったのだった。

 侯爵は立ち上がり、大股で近づくと、彼の妹を抱きしめ、両頬にキスをした。


「ミリアム、マイダーリン、元気そうだね。」


声も雨降る海のようだ、とリンは思った。低く響く波と、音もなく雨を吸い込んでいくような滑らかさが混じり合った、ベルベットのようなバリトンだ。


「うふふ!お兄様ったら!一ヶ月しか経ってないのに、病気になんかなるわけないでしょう?」


抱擁を返したミリアムが嬉しそうにはしゃいでいる。リンはまるで映画の1シーンを見ているかのような現実感の無さで、2人のきょうだいの仲睦まじい様子を見ていた。

 夢想の中のイメージに浸りきって油断していただけに、次の瞬間、侯爵から向けられたトゲのある視線と攻撃的な言葉に準備が出来なかったと言える。


「・・・で、そちらがうちの妹に妙なことばかり吹き込む、貧乏人か。」


一瞬何を言われたのか分からず、思わずきょとんと相手を見返してしまった。


「お兄様・・・!!!」


ミリアムが慌てて兄の腕を引き寄せた。


「ひどいわ!なんてことを!リンは私の大切な大切な、初めて出来た友達なのに!」


「ミリアム、君は純粋すぎる。こういった輩が考えているのは一つしかない。我々と仲良くなって、あわよくば甘い汁を吸おう、ということだけだ。」


あまりの言われようだが、リンの頭をよぎったのは「ああ、またか。」という諦念でしかなかった。


 昔から、孤児院の子供は盗みを働く、とか、心根がねじ曲がっている、とか、謂われのない差別と非難を受けて来たのだ。こうした偏見を持った人々から、心ない言葉を浴びせられるのは初めてではなかった。

 確かにリンは期待していた。階級を越えて、自分を大切な友達だと思ってくれているミリアムの兄であれば、そういった偏見を持たない、寛大で人間味のある暖かな人なのではないか?と。気むずかしくはあるだろうが、誠意を込めて接すれば、自分のことを孤児の盗人と蔑むことはないだろう、と。

 しかし、事実は違ってしまった。令嬢達が花嫁になることを夢見る、麗しのディスカストス侯爵は、階級で人を蔑む、俗物的な人物だったのだ。


(それでも、そうした仮面の下に、本当の彼の姿が隠れているのかもしれない、なんて思いが拭えないなんて、私はいったい、どうしてしまったのだろう?)


リンは無意識のうちにアクセルの瞳をのぞき込んだ。

 アクセルはたじろいだ。目の前にいる、妹よりも3つも年下の少女に、憐れまれているような気がしてならない。


(この私が?!憐れまれている?!)


 妹を言いくるめて手に入れたのだろう、品の良い洋服に身を包み、踵の高い靴を履いていても、まだアクセルよりも15cmは背の低い少女の目の中に、彼はなにか、自分が欲しているものの片鱗を見たような気がした。しかし、少女の瞳の中に宿る表情と思いは、まるで砂時計の砂のようにすごい勢いで流れ去り、アクセルには捕まえることが出来ないうちに、良く見慣れた、表情に落ち着いてしまった。

 それはアクセル自身が毎朝鏡の中に見る、自分と同じ表情だった。諦めと義務を重んじる克己心。愛情ではなく責任感によって人と接することを求める、唯一の神がその信徒に要求した、罪と罰の律法を受け入れようとする強い精神だ。


「申し訳ありませんでした、侯爵閣下。」


驚くほど平静な声が出た。シスターがいつも褒めてくれた、澄んだアルトだ。『あなたの声には人の心に触れる力があるわ、リン。人を助け、癒すことに使いなさい。』シスター、助けてください。もう少しだけ、私が泣き出さずに済むように。

 そんなリンの声を聞いて、侯爵がぴくりと反応した。


「ミリアム様のご厚情に甘えて、このようなところにまでしゃしゃり出ましたこと、深くお詫びいたします。今後、ミリアム様には失礼の無いよう気を付けますので、どうかご容赦ください。」


そう言って深く腰を折った。続いてミリアムに向かい、


「ミリアム様、私はこれで失礼いたします。」


と腰を折ると、振り返ってドアノブを掴んだ。


「リン!!!」


ミリアムがリンを追おうとして兄に腕を掴まれているのが視線の端っこに写ったが、リンにはもうどうすることも出来なかった。


 こうしてアクセルとリンの初対面は最悪の結果で終わった。

 翌日、早速ディスカストス侯爵は妹を一人部屋に移すようカレッジ側に申し入れを行ったが、ミリアム本人の強い意志により実現しなかった。一人部屋に空きがなかったことに加え、ハンストを交えた妹の強い抵抗に遭い、侯爵側があきらめたのだった。

 ただ、侯爵はリンに対して誓約書の提出を強制した。内容はミリアムとディスカストス侯爵家に対する金銭要求と情報漏洩を厳しく禁じる内容で、守られなかった場合、警察沙汰にする、などほとんど恐喝のような文言が並んだものだったが、リンは素直にサインした。探られて痛む腹などないのだ。だったら、気の合う友達と同室の方が居心地良いに決まっている。


「・・・どうしてこんなものにサインするの?」


青い顔をこわばらせて嗚咽するミリアムの肩を抱きながら、リンは言った。


「どうでも良いものだから、サインするのよ。ここに私がサインするだけで、侯爵閣下は安心するでしょう?ただそれだけのこと。」


「でも、リン、あなたはそれでいいの?」


「どうってことないわよ、ミリアム。」

ミリアムの涙をティッシュで拭いながら、リンは心の底から言った。


「大人ぶるつもりはないわ。でもね、ミリアム、世の中にはこういうこと、たくさんあるのよ。もちろん、いつかなくなるんだって、そう信じたい。でも人の真心とか信じる心とか、お金が介在しない思い遣りベースの知遇のやりとりとか・・・。そうした世界に、ビジネスベースの『契約』って考えを持ち出さずにはいられない・・・そんな人達がいるの。」


そういう弱い人達は、契約書を取ったと言う事実でもって、自分の不安をようやく消し去ることができる。哀れな、同情すべき人達なのよ・・・。リンは最後の部分をぐっと飲み込んだ。兄を崇拝し、信頼しているミリアムには言う必要のないことだった。

 リンはその不遇な人生の中で、嘘を言わないことと、余計なことを言わないことの効用を身につけた。相手が誰であろうと、それは同じだ。ミリアムが表面上はどんなに何不自由ない「幸せな」令嬢であったとしても。そうした彼女の恵まれた生い立ちが、思い遣りの対象外になる理由なんてどこにもない。


 ミリアムはひとしきり泣いたが元々あまり悩みを持続できない質でもあり、リンと兄の間の確執にはとりあえずの決着が着いた、と気持ちを切り替えたのだろう。やがて、特にこのことに触れることはなくなった。

 また兄との面会は相変わらず続いてはいたものの、ミリアムの強い要望で、一ヶ月に一度定期的なものではなく、随時侯爵からの申し入れをミリアムが受け入れた時のみ行われることに変更された。侯爵からは「減らしすぎだ」との文句が出たものの、ミリアム自身が勉強の多忙を理由に譲らなかった為そのままになったのだった。

 こうして、リンの学生生活はこの事件の前と同様の、穏やかで大変な勉強中心のものに戻っていくことになった。そしてそうこうするうちに1年が瞬く間に過ぎ、長い夏休みがやってきたのだった。

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