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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
29/152

29.モン・ペリエの朝

 その朝、リンは細く漏れる白い光に起こされた。カーテンを思い切り引くと、寝惚け眼に目もくらむほどの夏の日射しが飛び込んでくる。


(そうだった・・・。私は今、モン・ペリエにいるんだった。)


「うーーーーん!」


思い切り延びをして、窓を開ければ、南海岸らしい少し湿り気を帯びた、暖かい空気が部屋に流れ込む。

 昨夜は日付が変わる頃にようやくここ、大学寮併設のゲスト用宿泊施設にチェックインして、そのまま倒れるように眠ったんだった。時計を見るとまだ朝の6時。5時間ほどしか寝ていない計算だ。しかし、リンは


(5時間眠れれば十分!)


と潔く裸になると、浴室に飛び込んだ。


(こんなに気持ちの良い朝に、朝寝するなんて勿体ない!)


リンの部屋の窓から見えるモン・ペリエ大学構内の光景は、それほど美しかった。アザリスにはない南の強い日射しに、空気は澄み切っていて、青い空と黄緑のスズカケの木立がキラキラと光って見えた。

 シャワーを手早く済ませ、ジョギングウェアを身につけると、夏の早朝の光の中へと飛び出す。

 ジョギングは1年前のホルト中将の一件をきっかけに始めたリンの大切な日課である。あの日、慣れない舞踏会の準備と本番のゴタゴタに長時間の緊張を強いられ疲れ果てていたとはいえ、帰る早々眠り込んでしまったリンは、自分の体力(スタミナ)の低さに危機感を覚えた。


(こんな体では、救急救命医などできない。)


そう思ったリンは新学期が始まってすぐ、朝のジョギングを始めた。更に、カレッジの学生厚生プログラムの一環として、無料で提供されていたヨガも始めた。

 無理矢理のように詰め込んだ授業とその課題のせいで目が回るほどの忙しい1年だったが、そんな日々の中で、ジョギングとヨガはリンを大いにリフレッシュしてくれた。

 ちなみにリンがこれらの新しい日課と趣味を始めたというニュースは、ミリアム経由で勿論アクセルにももたらされていたが、それを聞いたアクセルが


『ヨガクラスに出る暇はあっても、私との面談に来る暇はないと言うことか…』


と、ますます苛ついていたことは、また別の話である。


 そんなリンが予め調べたところでは、ここ、モン・ペリエ大学でもサマースクール期間中は受講生向けに無料のヨガクラスが提供されるらしい。しかもインド哲学の教授が招聘した、本格的なアシュタンガ・ヨガの導師(グル)クラスの指導者による、瞑想付の本物のヨガだという。

 足取り軽く構内を走りながら、リンはこのモン・ペリエ大学滞在が実り多き楽しいものになるだろう予感に、笑みがこぼれるのを堪えきれなかった。


「よぉーし!!」


リンは弾むような足取りでスピードをあげた。


 リンは昨日、アザリスの首都デリースから最終便でここ、モン・ペリエに到着した。モン・ペリエ大学はデューランズ国内でも屈指の名門医学部を持つ私立大学で、その歴史は古い。

 明日から開催される病理医学の国際学会で、リンの師事するドクター・ブルームが基調講演といくつかの研究発表をする、そのアシスタントとして3日間を過ごす予定である。

 更にその後5日間のインターバルを経て、2週間に渡るサマースクール(集中講義)を受講するのだ。

 幸い、アザリスの国費奨学生の身分のおかげで授業料は免除される。加えてアシスタントとしてのアルバイト料の他に太っ腹なドクター・ブルームからの特別ボーナスで、往復の航空券まで世話してもらった。


(孤児の私が外国の大学で興味のある講義をうけられるなんて、夢みたい。)


 リンの胸に改めてドクター・ブルームへの感謝の気持ちが湧いてくる。その幸福感のおかげか、ジョギングしながらリンの目に飛び込んでくるものすべてが美しく見えた。


 集中講義は当然デューランズ語で行われる。隣国の言語としてアザリスではデューランズ語教育が盛んであるが、それだけでは授業を受けそれを理解するまでには至らない。

 しかしリンは、いつか外国に行く日のことを夢見て、コツコツ勉強を続けてきた。

 それでも専門の医学用語が頻出するであろう集中講義はかなりチャレンジングな内容になるだろうと思っている。

 そこでリンは、学会とサマースクールの間にある5日間を授業の予習に充てようと考えていた。無論、そんな貴重な5日間が、ディスカストス兄妹によって「強奪」されようとしていることなど、知る由もない。


 ところで、昨夜、リンが最終便に乗ったのには訳があった。搭乗に間に合うギリギリまで、ベイビー・シッター先の子供達に散々引き留められたからである。

 奉公先だったクリフォード男爵家の5人の子供達とは、ウィリアムズ・カレッジ入学前の夏を含めると実に3回の長期休暇を共に過ごしきた仲である。

 さよならパーティは、最後に子供達が一人一人リンへの手紙を読み上げる、という感動的なフィナーレを迎えた。リンも子供達も、互いにすっかり気を許しあっていて、別れるのが辛くて辛くて堪らなかった。

 一番年長で秋から大学準備予備校(プレップスクール)に入学することが決まっている14歳のエドワード少年でさえ、嗚咽を漏らしていたのがいじらしい。それを男子として、そして長子としての矜持で必死に耐えながら、わんわん泣いてリンを引き留めようとする弟妹を懸命に宥めていた様子が更にいじらしく、余計リンの涙腺を刺激した。


(救急救命で経験を積んだ後は、小児科もいいかも知れないな。)


 その様を思い出しながら、リンはそんなことを考えている。

 リンは子供が大好きだ。孤児院で育ったというのも大きい。周囲はいつだって子供で溢れていた。

 家族がいない分、孤児院の子供達やシスター達がリンにとっては家族のようなものだ。自分が子供の頃感じたのと同じ痛みと寂しさを抱えている子供達の気持ちがよく分かるリンにとって、一緒に育った彼らは、心の底から愛せる大切な存在だった。

 そんなリンが小児科ではなく、救急救命を第一希望にしているのは、孤児や貧困層の人々が最も差別を受けているのが救急救命の分野だからなのと、なるべく早くありとあらゆる分野の診療経験を積みたい、と思っているからだった。そしていずれは孤児院の近くに小さな診療所を建てて、ハーブ園から採れたハーブによるアロマテラピーやホメオパシーを併用した医療を提供しながら、穏やかに暮らす。それがリンのささやかな夢である。


(診療所の目処がたったら、なるべく早く結婚したいなぁ。子供は沢山産みたい。子育ても旦那様や孤児院の子供達とシスターに手伝ってもらえば、仕事と両立できるよね?)


そんなことを考えながら、モン・ペリエ大学の構内を走っていく。


 そして、そんなリンを見つめる一人の男がいた。

 朝刊を小脇にはさみ、右手にはカフェオレの紙コップを持っている。白いヨット帽を目深にかぶって、流行の白とスカイブルーのヨットマンのようなハイブランドクルーズラインでその均整のとれた長身を包み、堂々と歩いている。まるでモン・ペリエ大学のことならなんでも知っているような、堂々とした歩幅だ。もし女子学生が周囲にいれば、きっと目を惹いただろう、そんな美丈夫だった。

 世界的なモデルがランウェイを歩くような滑らかな足取りで歩きながら、その視線は、少し離れた建物の向こうから現れた、ジョギング中のリンに向けられていた。

 リンはその人物にまったく気付くことなく、近づいていき、そしてすれ違おうとした。楽しい考え事に集中していたせいもあって、別に相手の顔も見なかった。

 だから。


「元気そうじゃないか。」


そう、不意に話しかけられた瞬間、それが自分に対して放たれた言葉なのかどうか、一瞬分からずに走り去ってしまいそうになり。

 しかし次の瞬間、それがアザリス語であることに気付き、更に次の瞬間、朝の爽やかな風が運んできたコロンの匂いに自分の良く知る人物を思いだし、叫んだ。


「あ、アク…閣下!!」


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