28.ディスカストス兄妹の思惑
ミリアムからのその電話を取った時、アクセルは奇遇にもデューランズから戻る飛行機の中にいた。
ビジネスクラスのゆったりとしたシートピッチにその長い足を伸ばしながら、今飛行機の中にいることを感じさせない普段通りの調子で受話器を握って言った。
「それで?」
『だからね、お兄様。今年のバカンスはデューランズで運河下りしましょう!
リンに聞いたら、学会のアシスタントが終わってからサマースクールの集中講義が始まるまでに5日間、なにも予定の入っていない期間があるんですって。
その日程に合わせてあっちで合流して、レ・バン湖で湖水浴して過ごす、っていうのはどうかしら?』
「…あの辺りだったら、もうそろそろクルーザーの手配をしないと間に合わないな。
それよりも、リンはその計画に賛成したのかな、ミリアム?」
『まだよ、お兄様。でも、これはサプライズにしようと思って、リンには秘密にするつもりなの。
リンにとっては学生として最後のバカンスでしょう?思いっきり楽しませてあげたいのよ!
ふふふ!リンってば、モン・ペリエに突然現れた私達を見て、きっとすっごく!驚くと思うわ。
モン・ペリエもレ・バン湖も素敵なところだし、きっと去年と同じくらい楽しいバカンスになるに違いないわ!』
興奮して捲し立てるミリアムに相槌を打ちながら、アクセルはこの1年、リンから受けた『仕打ち』を思い出して暗く苦い笑みを浮かべた。
*-*-*-*-*
リン・バクスターは有言実行の人間だった。
あの夏の終わりの日、ウィリアムズ・カレッジのがらんとした駐車場で口にしたとおり『二度と会わない』という姿勢をこの1年の間、見事貫き通したのだった。
ああは言われたものの、女性から拒否されたり忌避されたりしたことのないアクセルは、ただの口先だけの空言、心にもない意地っぱりな一言だろうと高をくくっていた。
それに身分制度のほとんど頂点に属する、最高位の貴族であるアクセルには、リンと会うかどうかをコントロールするのは自分である、という傲り高ぶった自負があった。身分も社会的地位も高い自分が呼び出せば、取るに足らない身分で孤児のリンが、それを拒むことなど出来るはずがない、と思いこんでいたのである。
ところが、ミリアムとの面会の度に、それとなく同席を『許可』してやったにもかかわらず、その『過分に親切な』申し出は、ことごとく突っぱねられたのである。そして結局の所、リンが宣言したとおり、アクセルはこの1年間というもの、彼女を垣間見ることさえ出来なかったというわけなのだった。
物心ついてから今現在に至るまで、ビジネスでもそれ以外の場面でも、自分の誘いを断る人間に会ったことのなかったアクセルは、心底驚いた。この国で最も古い血と侯爵という爵位を持ち、ビジネスで成功した億万長者。ましてや長身の美丈夫で、極めつけに独身であるアクセルの誘いを断る女性など、いるはずがなかった。
ところが、ここにたった一人、彼の誘いを断り、彼との面談の機会を棒に振る女性がいる。そして、そのたった一人こそ、このアザリス屈指のモテ男、ディスカストス侯爵家閣下が心の底から『会いたい』『笑顔が見たい』と望む女性なのだった。
一方、有能かつ抜け目無い、ディスカストス侯爵家・筆頭家令執事であるグッドマンはと言えば、そのバカバカしいプライドに呆れつつも、こうしてしばらくの間アクセルがやきもきすることもまんざら悪いことではないと考え、これという手も打たず、アドバイスもせずにいた。
なにぶん、アクセルはモテモテ人生を送ってきた男である。そのモテぶりは筋金入りで、正直、女性の誘いを断る方法は知っていても、自分の気になる女性を誘う方法は知らないのではないか?とグッドマンは睨んでいる。また、そんなアクセル相手であればこそ、まだまだ自分が口を出す段階ではない。誇り高きディスカストス侯爵閣下はその自尊心の高さから、誰かの手助けや介入を何よりも嫌うに違いないからである。それにーー。そこまで考えてグッドマンは少々意地の悪い微笑みを浮かべた。
(旦那様とて、少しは女性に対してままならない気持ちを味わった方が良いのです。せっかくの初恋なんですから。
その苦しさやうまくいかないやるせなさも含めて、思い出深いものにしていただくほうが旦那様の為でございましょう。)
気分はすっかりティーンネイジャーの子供を持つ親心である。
彼の主人、社交界きっての貴公子『麗しのディスカストス侯爵』が、恋愛(ただし、本気の)というフィールドにおいてはまったくもって無能になってしまうことに、歯がゆくも微笑ましい気持ちを抑えきれないグッドマンであった。
その一方で、
(万が一、この恋が実らなかったら旦那様は本気で独身を通すかも知れませんね…。)
なんてことも考えている。
ところで、この有能な執事は彼の主人を助けることには確信犯的に消極的だったが、それとは関係なくリンへの好意を示すことには、まったくもって余念がなかった。
首都・デリース一との誉れ高き菓子店『マダム・デラクロワ』のダックワース。同じく、マカロンに、フレッシュクリームのロールケーキ。その他色々……。いずれも開店直後に売り切れてしまうことが多い為に入手困難な超人気商品をその広い伝手を頼っては手に入れて、アクセルがミリアムとの面会に出かける度に『お嬢様とバクスター様に、私からよろしく、とお伝え下さいませ。』とアクセルに手渡し続けたのだった。
その結果、面会の度にミリアムから、リンのグッドマン宛のお礼状を預かる羽目になったアクセルの胸中は、なにやら分からぬ苛立ちで煮えくり返らんばかりに乱れた。
そして、まんまと抜け駆けをして、リンの注意と関心を引くのに成功した彼の老執事を、今までにない恐ろしい目つきで睨み付けた。
無論、これも又グッドマンの策略の一部だった。それは、アクセルが一刻も早くリンへの恋愛感情に気付いてくれるように、との気持ちが込められたささやかなシグナルなのだった。
ただし、残念ながら、自分の恋愛感情に疎いアクセルにとっては、ただただ『苛つく』という印象を残しただけで、決定的な気づきに至ることはないまま、この1年間は過ぎ去ってしまったのだが……。
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ところで、アクセルからの『多分に親切な』申し出を断り続けたリンであるが、無論、悪気はなかった。これっぽっちも。
尊大でプライドの高い侯爵閣下にしてみれば『突っぱねられた』としか思えない態度であろうが、リンにしてみれば、ただただ単純に『時間がなかった』というだけだったのである。
この1年、飛び級による最速での進級と卒業を目指して手当たり次第に授業を取ったリンは、とにかく多忙な日々を送ってきた。それでも、アクセルに何某かの感情を持っていれば、忙しい勉学の隙間をぬってでも『同席を許可』された歓談に参加する気にもなっただろうが、何分リンにはその気がなかった。ましてや、勉強で手一杯、必死で過ごしたこの1年というもの、侯爵閣下の胸中を忖度する余裕などなかった。
その結果、恋愛感情という自覚はないものの、アクセルの気持ちに火を付け、追いかけられる結果になったのだから、皮肉というよりほかにない。社交界でアクセルを追っかけている独身令嬢達が知ったら、納得行かないあまり卒倒するであろう事態であろう。知『ら』れぬが仏、である。
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そんなふうに無自覚であるにしろ、会いたいという気持ちを徹底的に反古にされて、色々な意味で苛つきが頂点に達しているアクセルにとって、ミリアムの提案はまさに渡りに船だった。
(さあ、チェックメイトだ、リン・バクスター。もう逃げ道はないぞ?この1年間、私の誘いを悉く突っぱねたツケをはらってもらおう。)
アクセルは沸々とこみ上げる笑いを堪えもせず、早速運河下りをする為の手配を言いつける為に、機内電話を取り上げ、グッドマンの携帯を呼び出した。
「ああ、私だ。来月のバカンスだが、ギースではなくデューランズで過ごすことにした。そうだ、運河下りをする。手配に掛かってくれ。ン?ホテルはいい。船に泊まればいいだろう。ん、ん、ああそうだな。任せる。ああ。」
ひとしきりグッドマンと事務的な会話を交わして受話器を置く頃、アクセルは、胸の中に知らず知らずのうちに淡くフワフワしたものが沸き上がるのを感じていた。
やがてその眼下にはデリースの美しい夜景が見えてきたが、アクセルの頭の中はこの夏訪れるであろう楽しいバカンスのことで一杯で、その美しい光景には、ついぞ目を留めることはなかったのだった。




