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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
27/152

27.あっという間の一年間


 新学期が始まった。

 この年、リンの日々はますます多忙を極めた。

 というのも、本来であれば8年かかる医師養成課程を最短の5年で駆け抜ける予定で、人の2倍~3倍の単位を取得する為に授業を受けまくったからである。

 アザリスは歴史の古い大国であるが、身分の差が大きく、福祉の面ではまだまだ立ち後れているところがある。医療制度はその悪弊が最も大きく出てしまっている部分であり、医師の多くが元々金持ち階級出身である為、貧乏人に冷たいのが常であった。

 リンの育った孤児院もご多分に漏れず医師から冷遇され、孤児院の子供が夜中に急患として運びこまれたにも関わらず待たされたり、昼間の通院でも診察の順番をわざと後回しにされるなど、数々の差別的扱いを受けていた。

 また、孤児の診療については国からきちんとそれなりの助成金をもらっているはずなのに、リンの育った孤児院近隣にある診療所ではやたらと加算料金を課したりして高額の請求をされることも多く、いくら町役場に訴え出てもなかなか改善してもらえなかった。

 そんなふうに小さい頃から医師をあてにできない環境の中で育ったリンは、自分たちでなんとかできないか、と考えて薬草やハーブや民間療法について本を読んで学び、試し、すっかり詳しくなったのだった。思えばこの頃から、リンの脳裏には『医師になりたい』という思いが生まれたような気がする。

 やがてリンの手によって孤児院の庭には本格的なハーブガーデンが作られ、そこで取れた薬効のあるハーブ(薬草)のおかげで、孤児院の子供達やシスター達は免疫を高めたりアレルギーを緩和したりすることができるようになり、病院に行かねばならないような重篤な状態に陥ることはほとんどなくなった。

 一方、大量に収穫されるハーブを有効利用しよう、とシスター達の提案で作られたハーブティーやハーブ入りの石けんは、1ヶ月に1回開催される地元の日曜市(サンデーマーケット)で大人気を博し、その売り上げは孤児院の経営に大いに貢献することになったのだから、人間万事塞翁が馬とはこのことであろう。

 やがて国から奨学金をもらって高等教育の場で学ぶ機会を得たリンは、迷わず『医師養成コース』を選択した。そうしてとにかく一刻でも早く一人前の医師になろう、と入学前から固く決めていたのである。


*-*-*-*-*


 それは夏休みの開始を2週間後に控えた、初夏の日曜日の昼下がりだった。

 ようやく最終レポートの受理、すなわち全ての講義課程の修了を確認できて安堵したリンとミリアムは、久しぶりにゆっくりとアフタヌーンティーを楽しんでいた。他愛ない話題から、再び長い夏休みの予定についての話になった時、ミリアムは初めてリンが来学期で学部課程を全て終了し、来年7月の医師免許の国家試験を受けること。そして来年の今頃には、契約病院での研修医生活に入ることを知ったのである。


「嘘でしょう?!リン!!あと半年でお別れなんて、私、信じない!」


掴みかかりそうに叫ぶ親友を扱いかねて、リンは困ったように微笑んだ。


「ミリアム…。お願い、落ち着いて。」


そう言ってティーコージーをポットから外すと、わざとゆっくりとした動作でミリアムのカップにお茶のお替わりをついだ。


「私の育った孤児院だけじゃなく、この国の全ての孤児院の子供達は、医療差別に遭いながらそれに耐えている。一刻も早く、そんな子供達に安心してかかってもらえる医者になりたいのよ。」


「それはわかるけど…。ああん、もう、どうしてもっと早く言ってくれなかったの?!そうすれば私だってもっと心の準備が出来たのに!」


「ああ、それは、今回のレポートが受理されるまで、学部課程修了のための口頭試問研究に進めるかどうか見通しが立たなかったのよ。」


ミリアムはそんなリンの表情を見て、もうこの頼りがいのある友達との別れがどうしようもない未来として確定してしまっていることを、改めて実感させられた。


(リンはどこまで崇高な人なんだろう!それに比べて、私ったら自分のことばっかり…。)


 ミリアムはうなだれた。心の中には自己嫌悪の嵐が吹き荒れている。


(私ってば、理不尽で不合理なことばっかり言って責めちゃったのに、リンはそんな私の我が儘な感情を(おもんぱか)ってくれた。加えて謝罪の言葉まで口にさせちゃった…。)


リンの緑かかったそのヘーゼルの瞳の縁の白目がかすかに充血しているのを見て、ミリアムはひどく申し訳ない気持ちになった。


(そうよ。リンがどんなに頑張ってきたか、私が一番分かってるじゃない!だって、私はリンの一番そばにいたんだもの。リンの親友なんだもの!

 リンはこんなに頑張ったのに。睡眠時間を削って、全然遊びもしないで、頑張って頑張って…。ようやくここまで来たのに!私ったら自分が淋しい、ってことしか考えてなかった…。バカバカ!私のバカ!)


 もともと、素直で優しい質のミリアムである。すぐに気持ちを持ち直し、リンの手を取って言った。


「…謝るのはこっちの方よ。ごめんね?リン。

 私ったら取り乱してしまって…。あなたが頑張ってたの、一番近くで見てたのは私なのにね。

 …おめでとう!リン。良かった、ホントに良かった。目標達成ね!

 少し…ううん、とっても淋しいけど『今生のお別れ』というわけでもないしね!」


最後の最後は少し声が震えてしまったけれども、ミリアムはなんとかそこまで言って、必死で笑顔を作った。その様子のいじらしさに、思わずリンは涙ぐんでしまった。


「ありがとう、ミリアム。」


リンとミリアムは熱い抱擁を交わした。


 ところがーー。

 その腕をほどいてミリアムが言った一言に、リンはひどく当惑させられることになった。


「それじゃあ、次のバカンスも、絶対絶対!一緒に過ごさなくっちゃね!」


腕をほどき、目元をティッシュで押さえると、ミリアムは当然のように言ったのである!


「え?ミリアム、それはちょっと…。」


リンは言った。


(冗談じゃないわよー!また侯爵閣下から強いられて、あんな思いをするのは懲り懲り!

 ミリアムを盾に取られて、閣下と親しいフリをするなんて、一生に一回で十分よ…。)


 リンは叫び出したくなるのを必死に押さえながら、ミリアムを説得するように首を振った。


しかし、


「だって、今年はリンと過ごせる最後のバカンスなのよ?

 まさか断るなんてひどいことしないわよね?リン!」


と、まるで脅迫のようにミリアムは言い募った。

 しかしリンとて必死である。負けてはいられないとばかりに一歩も譲らず言い募る。


「無理よ、ミリアム。今年も男爵家でのベイビーシッターのアルバイトがあるし。

 それに去年と違ってね、今年はサマースクールに参加するつもりなの。ウィリアムズに戻るのは、授業開始のガイダンス前日になるわ。」


「ええーーっ!なによ、それ!私も行くわ!どこどこ?どこに行くの?」


「もう申し込み締めきりは過ぎてると思うわ。」


リンはミリアムの言葉に苦笑しながら続けた。


「最後の夏休みになるし、思い切って外国に、デューランズのモン・ペリエ大学っていうところに行ってみることにしたの。面白いセミナーをやってるってドクター・ブルームが勧めてくれたから。」


「モン・ペリエ?!知ってる、行ったことある!確か…、6歳の時に、家族みんなで運河下りした時に通ったの。名物のアーモンドパウダーをたっぷり振りかけたチュロスがとっても美味しいのよ。思い出すわー。」


美味しいものを思いだし、うっとりとした目でミリアムは言った。


「そうなの?益々楽しみだわ。」


ミリアムの注意が少しそれたことに内心ホッとしながら、リンは畳みかけるように続けた。


「ベイビー・シッターのアルバイトを終えたらすぐにドクター・ブルームの出席する学会に合わせて、モン・ペリエ大学に行って、学会発表のアシスタントをする予定なの。

 往復の航空券とサマースクールの間の滞在費が十分まかなえる額のアルバイト料をドクターが約束してくださったの。もう、ドクター・ブルーム様々よ!ほら、こんな事でも無ければ私みたいな奨学生は外国になんて行けないし。」


「さすがドクター・ブルーム。太っ腹だわねぇ!」


ミリアムはリンの指導教官であるドクター・ブルームのひょろ長い痩せた体と、は虫類のようなギョロリとした目を思い出しながら、そう言った。

 リンのメンターともいえるドクター・ブルームは実は爵位持ちで、莫大な遺産の相続人だった。いつでも研究費に汲々としている他の貧乏教授と違って、その信託財産から得られる莫大な金利を惜しみなく自分の研究に使えるという、研究者にとっては正に夢のような学究生活を送っている人物であり、間違いなく、ウィリアムズ・カレッジ随一の名物教授である。

 それだけ聞くと、まるで鷹揚で優雅な貴族らしい人物を想像しがちだが、実際にはどこか横柄で一種独特の観念を持ち、研究生がなかなか居着かないので有名であった。

 しかし何故かリンは彼と性に合い、彼も又リンを気に入った。

 リンに言わせればドクター・ブルームもディスカストス侯爵閣下も、そして、孤児院でリンの関心と愛情を得ようとあまのじゃくな態度を繰り返す少年達も皆一緒なのである。要は、相手がどんな態度を見せようと、寛容に構えて理性的に対応するのが一番効果的な態度である、と思っている。


「だからね、ごめんなさい、ミリアム。やっぱり今年はギースに行く暇はなさそうだわ。」


リンが心の底から謝ると、ミリアムは目玉をぐるっと回して苦笑いしながら、


「仕方がないわね。わかったわ、リン。あーあ、きっとみんな残念がるわ。リチャードもお兄様もグッドマンも。」


と納得してくれた。


(いや、リチャードとグッドマンさんはともかく、閣下は別に残念だなんて思わないだろうし、逆に私がいなくて嬉しいと思うんだけどな…。)


心底残念そうに呟くミリアムの顔を見ながら思わず内心独り言つリンだった。



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