26.喪ったものは?
それは突然のことだった。アクセルが俯いたまま眼も合わせずに言った。
「…ホルト中将が、君にくれぐれもよろしく、と。」
「あ、ハイ。ありがとうございます。」
「リチャードも。」
「ええ。」
無論、リンは重々承知している。なぜなら、つい4時間前に熱烈なハグと、美しい貝殻製のネックレスと共にリチャードが別れを惜しんでくれたからである。
「グッドマンも。」
「はい。」
アクセルが車のキーを持ってくるように言った時の、グッドマンのご満悦な表情がリンの脳裏に浮かんだ。思えば何故、あの親切で優秀な執事はあんな嬉しそうだったのだろうか?謎である。
などと考えながら、こうしている最中もアクセルはリンの腕を放そうとはしない。
(そろそろ腕が痛くなってきたんですが…閣下。)
内心アクセルの妙に口数の多い状態に思わず苦笑いするリンである。
とうとうアクセルも言いたいことが切れたらしく黙りこくった。ちなみにまだリンの左腕は解放されていない。
(よし、今度こそ、謝罪するのだ。軽く、さりげなく…。)
アクセルはさりげなくリンの顔へと視線を戻しつつ、そう、自分に言い聞かせた。
ところが冷静になりつつあったせいで、自分がまたもやリンの腕を乱暴に捉えていることに今更ながら気付いてしまったアクセルは、今までとは違う意味で焦ってしまった。
更に悪いことに、ギュッと握ったその柔らかい腕と感触に、あの月夜の東屋で与えられた優しいキスを思い出してしまったアクセルの心臓はギュッと縮こまり、同時に顔と下腹部に血がどっと流れ込むのを感じて焦ってしまうのだった。
「…閣下?」
明らかに挙動不審なアクセルを心配したリンが、アクセルの顔をのぞき込む。と、その榛色の瞳に籠もった優しい、思い遣りの心に勇気付けられ、アクセルはなんとか言葉を紡いだ。
「改めて礼を言う、リン・バクスター。この2週間、ミリアムの前で仲の良い友達を演じてくれたことにも、ホルト中将を救ってくれたことにも。
そして…。
私の差別的な発言と態度に、寛容な対応をとってくれたことにも。」
リンは一瞬目を見開いて驚いた様子を見せたが、すぐに自分の腕を掴むアクセルの腕に手を添えてそっと外しながら言った。
「閣下、私はミリアムの友人として当然のことをしたまでです。お気になさらないでください。」
どこか苛ついていたアクセルの表情が途端にやわらぎ、口元に喜びのニュアンスが浮かぶ。
しかし、それに続いた言葉によって、アクセルの中に生まれた喜びと幸福感はあっさりと消え去ってしまった。
「大変お世話になり、ありがとうございました、閣下。大変楽しく休暇を過ごせました。」
リンはしごく真面目な顔つきで、続けた。
「もうこうした思い上がった行動はしませんので、ご安心下さい。」
「…リン?」
アクセルは自分がリンに強要した『偽りの親愛』が、自分が謝罪することで『本物の親愛』に変わることを期待していた自分に気付いた。
アクセルはリンの本物の友情を愛情を欲した。辛抱強く、優しく、愛情深いこの少女の、愛情の対象になりたかった。そう、彼の妹のように気遣われ、愛され、親しみを持って扱われたいと願ったのだ。
しかし、今、それが自分にとって、どんなにか得難いものであるかを思い知らされていた。
アクセルは思い知らされた。
リンの中で自分という存在はどこまでも『どうでも良い』人間であることを。
ミリアムに注がれる愛情の100分の一だけでも欲すること自体、ほとんど不可能であることを。
そしてそれは他でもない自分自身の蒔いた種であることを、気付かされたのだった。
(リンはもうとっくに、私を見限っていた…。)
強烈な絶望がアクセルを襲った。
(およそ手に入らないものは何もないに等しい人生を約束されている自分。
そんな自分が、目の前にいるちっぽけな庶民階級の少女の信頼と愛情を手に入れることができないとは!!なんという皮肉だ!
…しかもそれもこれも全て身から出た錆、というべきか。)
瞳の中に受け入れがたい絶望を湛えて、アクセルはリンを見つめた。
リンにはやっぱりそれが孤児院の少年と同じものに見えた。しかしすぐに打ち消し、自嘲した。
(そんなはずない。閣下が私の愛情を、友情を乞うているなんてあるわけがない。
私がすべきなのは閣下と距離を置くこと。閣下が差別論者であることを忘れないようにしなければ。)
リンの表情から、あの、アクセルが求めて止まない本物の笑顔が、率直さが消えていった。そしてあっという間に本当の感情を隠す為の、偽りの仮面のようなものがその表層を鎧っていくのがわかったが、アクセルは為すすべもなく、ただそれを見ていることしかできずにいた。
呆然とするアクセルをほとんど無視して、リンは言った。
「閣下とはもう、一生お会いすることは無いでしょう。ですからお気になさらず。
これを最後に二度とお目にかからないことをお約束します。
夢のようなバカンスをありがとうございました。」
そういうと、リンは深々と頭を下げた。
アクセルはまるで足下に暗い穴が空いて、そこに全身が吸い込まれていくような気がした。
(一生お会いすることはない…二度とお目にかからない…。)
アクセルの頭の中にリンの言葉が繰り返し繰り返しリフレインする。
「失礼します。」
言葉もなくうなだれるアクセルを残し、リンはリリーナ礼拝堂から出てきたミリアムに向かって小走りで走り去っていった。
楽しげに話しかけるミリアムと共に、寮に向かって歩き出すリンの後ろ姿を視界から消えるまで見送った後、アクセルは運転席に身を沈め、大きな喪失感と戦った。
(私はリン・バクスターに何を求めているのだろう?)
アクセルは自問自答した。一瞬、仲睦まじかった両親の顔が頭に浮かんだがアクセルにはそれがなにを意味するのか分からない。
(少なくとも…、リンの作り笑いは二度と見たくないものだな。)
そこまで考えて、アクセルはエンジンをスタートさせた。
黒いラグジュアリーセダンはがらんとしたパーキングを抜け、幹線道路へ続く田舎道を滑らかに加速した。
(リンの本物の笑顔が見たい。)
自分の中に一つだけ浮かんだ気持ちを大切に頭の片隅にしまい込み、アクセルはウィリアムズ・カレッジから遠ざかる為により一層加速した。
車窓の景色は矢のように過ぎ去っていったが、思いに耽っていたアクセルの目にはなにも映っていなかった。




