25.リンの当惑
アクセルは車の向こう側から動かず、自分とミリアムの側に寄っても来ないリンを、少しイライラしながら眺めた。
この2週間のリンは完璧だった。
程良い親密さでアクセルに接し、それでいて決して馴れ馴れ過ぎず、かといって距離を置きすぎず、絶妙な距離感で『親しい友人』を演じきってくれた。
そんなアクセルにとって、別荘を出た途端に『やっと終わった!』とでも言うかのように、まるで全てを無かったことにするかのような、リンのそのすました表情を見るにつけ、寂しく、どこか憎らしく思うのを止められないのだった。
(確かにバカンスが終わるまで、とは言ったが、こんなに手のひらを返すように素っ気なくならなくてもいいではないか?そばに来なければ、謝ることもできない…!)
無自覚にリンの素っ気ない態度に傷ついているアクセルである。謝罪のタイミングが掴めない苛立ちもその気持ちに拍車を掛けた。
(こちらから話しかけろとでも言いたいのか?昨日まではあんなに親しげに微笑みながら話しかけていたくせに!)
正確には、リンはあくまでミリアム経由でコミュニケーションを取っていたに過ぎないのだが、アクセルの中では楽しい記憶だけがクローズアップされてしまっている。結局の所、それくらいアクセルはリンに夢中になっていたのだが、無論それを簡単に認めることができるようなアクセルではなかった。
そんなふうに痺れるような胸の痛みを無視して怒りで感情をすり替えようとしたアクセルだったが、当然うまくいくはずもなく、一方、リンはといえば、ちらちらと自分を見ているアクセルの視線を完全に勘違いしていた。
(あーあ、閣下ってばまたなにか言いたいことがあるんだろうか?面倒くさいなぁ。文句言われる前にさっさと消えるに限るか?)
そんなことを考えている。
「ね、ミリアム、私もう行くわね?ドクター・ブルームの研究室に寄る用事もあるし。」
リンがそう声を掛けると、明らかに侯爵閣下が憮然とした表情を見せた。
「待ってよ、リン!!私も行くわ!」
ミリアムが慌てて自分のバッグを兄の手からひったくった。
「じゃあね、お兄様。」
ミリアムは振り返ると、車の向こう側、リンの元に駆け寄った。
「元気で!ミリアム。」
アクセルが叫んだ。視線が合うと、リンがチラリとこちらを見て、小さく会釈した。
(行ってしまう…!)
アクセルは焦った。
その時だった。アクセルの守護天使が、意外な方面から彼に助け船を出した。
「ごめんなさい、リン。私、ちょっとトイレに行きたいの。少し待っていてくれる?」
と言い出したのだ。
「うん。わかった。」
アクセルはすかさずリンを見たが、リンはあえてアクセルと目が合わないようにパーキングの隅にあるベンチに座ろうと歩き出したところだった。
と、リンが自分に背中を向けたその時である。アクセルは無意識にリンに駆け寄ると、その腕を掴んでいた。
*-*-*-*-*
突然腕を掴まれ、びっくりして振り返ったリンの目に、なにやら苦しげな様子の侯爵閣下の姿が飛び込んできた。
「…閣下、なんでしょうか?」
「あ、ああ、なんだ、なんというか…。」
「…?」
途端に挙動不審な様子で目を逸らすアクセルを見て、リンはまたもや孤児院の少年を思いだしていた。
(まるで、別れを惜しむ気持ちを素直に出し切れない子供みたい。…でも、閣下が私との別れを惜しむなんて事あるわけないし…。いったいなんなんだろう?なにが言いたいの?)
リンのいた孤児院には、孤児でない子供も何人か生活していた。それは、経済的に困窮していたり、親が病気で入院していたりする家庭の子供達で、そんな子供達はごく偶に家庭に戻ったり、実の親が面会に訪れたりすることがあった。
感じやすい年齢の子供達は、自分の状況が仕方のないことだと分かっていながらも、やはり孤児院なんかじゃなく、自分の家で暮らしたい、と思っているものだ。そんな抑えていた気持ちが、面会や一時帰宅の終了時に抑えきれなくなって、無言の抵抗となって現れるのである。
小さな子供は泣き叫び、親にすがりつく。そして、もう少し大きな少年少女は、無言で親の身体を掴んだり服を掴んだりして訴える。『行かないでくれ』と。『置いていかないでくれ』と。
目の前でリンの腕を掴んだまま、どこか縋るような目をして睨み付けるように見つめるディスカストス侯爵閣下の姿にそんな孤児院の子供達が重なって、無碍に扱うこともできずにリンは途方にくれた。
実際には、こうした少年少女への対応は分かっているし、場数も踏んでいる。
しかし、いくら同じような様子を見せていても、相手はこの国でも有数の特権階級に属し、莫大な財産と権力を持つ侯爵閣下なのだ。リンがいつもしているように、孤児の少年のように扱っていいものだろうか?良いわけがない、リンはそう結論づけた。
それに孤児の少年達とは決定的に違っている点がある。それはアクセル・ディスカストス侯爵閣下は決して自分との別れを惜しんでいるわけでも、離れがたい気持ちで一杯になっているわけでもない、ということだ。
そういうリンだって、決して侯爵閣下と離れがたく感じているわけではない。実を言えば、さっさと縁を切ってしまいたい気持ちで一杯だ。それは何より侯爵閣下『が』自分『を』嫌っている、という事実による。しかもどうしようもない、まさに『手の打ちようのない』理由で。リンが孤児である、という理由で。
孤児であることを理由に忌避されるなら、それはもうリンにはどうすることも出来ない。努力の範疇を越える問題である。そして、リンはどうしようもないことには手を出さない主義だった。それが自分の出自にまつわることであれば尚更である。
(はぁー、困ったな。)
そういうわけで、リンはただ、どうにもこうにも身動き取れずに、アクセルの顔とアクセルが自分を掴んでいる手を眺めてただただつっ立っていることしかできずにいた。




