24.リンの感慨
ウィリアムズ・カレッジ自慢のポプラ並木が見えてきた。
頑丈で滑らかな流線型のラインをもった、その車の運転席のドアを開けて現れたのは、麗しのディスカストス侯爵である。灰色の髪に雨にけぶる海の色をした瞳を持つ美丈夫である彼は、そのファッションモデルさながらの長身をハイブランドのクルーズラインで包み、夏の終わりの少し涼しい風の中に降り立った。
パリのメゾンの職人技を駆使して驚くほど立体的に作られたその服は、アクセルの肢体を過不足無く包み込み、その逞しい肩や腰からヒップへの引き締まった筋肉の美しさを際立たせている。それは、この2週間の間、ショートパンツ姿から、果ては水着姿に至るまで満遍なくその完璧な肢体を拝ませてもらい、すっかり『アクセル耐性』を得たリンでさえ、しばし目を奪われる程の端整さだった。リンは惚れ惚れしながら考えた。
(他の学生が戻る前で本当に良かった!今までスーツ姿しか見せなかった侯爵閣下のこんな格好、みんな興奮するに違いないもの。やおら辺りがパニックになりそう。)
一方、学生達のアイドル、ハンサムな侯爵閣下は、鼻の形に合わせてオーダーメイドされたという特注のサングラスを頭に押し上げながら、助手席のドアに手を掛け、最愛の妹が下車するのを恭しくエスコートした。
『レディーはドアの開閉レバーなんて、一生触るべきではない、というのがお兄様の持論なの。自分で降りようとすると、ものすごく怒るのよ?』
いつかミリアムが言っていた言葉がリンの脳裏を過ぎった。
そんなディスカストス兄妹を尻目に、大きく身体をストレッチしながら、リンはトウヒ並木の向こうに見えるカレッジの建物群を遠く眺めた。
大きく深呼吸しながら背筋を伸ばす。
こうしていると、自分がこの場所にどんなに愛着を持っているかが改めて自覚される。強い強い『戻ってきた』という感慨が喜びを伴って胸に迫ってくる。キャンパスを囲む森林からもたらされるスパイスのような爽やかな薫りを含んだ風を、胸一杯に吸い込んで、リンはしばしその空気に酔った。
生まれてすぐに孤児院で暮らし始めてからカレッジに入るまでずっと、4人部屋で生活していたリンにとって、カレッジの寮部屋はとても贅沢なスペースに感じられた。
同時に、学究の場では皆が皆、ただの医者の卵であって、身分も階級も、ましてやどんな生まれかも問われずに伸び伸びと学ぶことが保障されていた。
ささやかな嫌がらせや差別の存在は、正直、ゼロではない。ただ、少なくとも教授も大学側の職員達も、そうしたくだらない軋轢からリンを守るという方針を貫いてくれている。
それはリンが求めて止まず、同時に、カレッジの外の世界では得られなかった安らぎ、神の与えたもう完璧な平等だった。
(ここは私の場所。私が本当の私でいられる大切な居場所。)
リンは思った。
思えばこの2週間余りは、分不相応な豪華なバカンスを与えられたものの、常にアクセルの視線を意識させられ、自分に課せられたタスクを要求される心の安まらない日々だった。アクセルからもたらされる偽りの優しさ、偽りの親しみを信じるフリをして、また同時にそれに応える自分を演じてきたリンは、ようやくその茶番劇から逃れ、静かで誠実な学究の日々に戻れることに大きな安堵を覚えた。
正直、ありえないほどの贅沢を体験させてもらったと思う。それは物質的なものだけではなく、侯爵閣下の限りない保護本能に守られた、守られているという安心感も含まれる。それらを与えられながら過ごしたこの2週間を、懐かしむ気持ちも無論、胸の奥に存在している。もしも、父親や兄といった、自分を守ってくれる家族がいたらこんな風なのだろうか、と思う。
それは、常に孤児院の子ども達を守る立場だったリンにとって、生まれて初めて体験する不思議な安心感で。
しかし、だからこそ、それはまさに『泡沫の夢』である事をリンはよく分かっている。
(あれは、私の人生には元々無いもの。惜しむなんてばかげているわ。
私の人生ではこれが最初で最後。来年どころか一生縁のないものなのだから。)
そう強く心に刻みつける。
(きっと、この夏の日々は今まで頑張ってきた事に対する、神様からのちょっとしたギフトだったに違いないわね…。ありがとうございました、神様。)
そんな風にリンが心の中で神に感謝の祈りを捧げているすぐ側では、ディスカストス兄妹が抱き合い、しばしのわかれを惜しんでいた。
リンは、そんな二人をぼんやりと眺めた。
(そういえば、閣下とはこれでもう二度と、一生、会う機会はないんだろうな…。)
そんな事を考えつつ、リンはこの夏『親密さ』を装う為にアクセルが見せた、様々な表情をなんとはなしに思い出していた。
真夏の太陽の下でキラキラと輝く不思議な銀色の濡れ髪や、海と空の青を写して青灰色に煌めく瞳の色。意外に細くて繊細な指も、陽に焼けて精悍さを増したその顎のラインも。
(そう言えば閣下とはよく目が合ったなぁ。まぁ、当然か。私の事、見張ってたんだから。でもあんなに年中見張ってることなかったのに。…私もいやだったけど、閣下だって大変だったろうな。ま、それもこれで終わり。良かった!やっと見張られ生活から解放される!)
リンはそんなことを思っている。そこには特に感慨はない。寂しさも、慕わしさも。
結局の所、リンにとってアクセルは、あくまで遠い世界の人であり、ミリアムという友人を介して繋がっただけの、路傍の人でしかない。
そもそもミリアムの懇願に根負けして夏の別荘に行く、などという『愚行』を犯さなければ、あんな風に近しくすることもなかった、雲上人。それがリンのアクセルに対する印象の全てである。
だがしかし…、あれはなんと輝く夏の日々だったことだろう!
(きっと一生忘れることは無いだろうな。夏のバカンスなんてこれから先私の人生に訪れっこないもの。)
リンはしみじみと思う。
偽りを強要され、見張られていたせいで落ち着かなかったにしろ、リンの別荘滞在を許してくれたアクセルには感謝の念しかない。
(いつか閣下と本物の親愛を込めて『リン』『アクセル』と呼び合うことが出来る日が来るのだろうか?…いいえ、そんな日が来るはずがない。それでも…この2週間は私の中に煌めく思い出として残る。それで良い。それで良いんだわ…。)
リンは、そんな風に考えながらミリアムとアクセルを眺め続けたのだった。




