22.ホルト中将の忠告
翌日は小雨模様のあいにくの天気で、肌寒いくらいの気温となった。そんなしのつく雨の中を、ディスカストス侯爵家別荘の4人は粛々と病院へ向かった。
ホルト中将は本日付けで出立するはずだった練習鑑への乗艦を取りやめ、療養の為の特別休暇を申請した、と笑いながらそう言った。
「いままで誰にも言わずに騙し騙しやってきたんだが、今回の発作で少し考え直さなければならないと気付いてね。」
そんな風に笑うホルト中将の穏やかな表情は、彼が海軍の上級将官としてかなりのプレッシャーの中で仕事をしてきたであろうことが伺えた。
「ビックリしたわ、ホルトおじさま!そういうことなら、ニトロ?っていうお薬のことも、言ってくださらないと!昨日の夜みたいなことになるのは、もう懲り懲りです!」
ほんのりと目尻を赤くしながら、ミリアムがわざと茶化した口調で言うと、ホルト中将は
「すまんな、ミリアム。しかし、お前さんにこんな風に心配される日が来るとはなぁ。いつもいつも甲板の上で真っ黒になって遊んでは、男の子に泣かされていたのになぁ。」
と、これまた場を和ませるために、ふざけた口調で応じた。
そんな二人の様子を見ながら、
(お父さん、ってこんな感じなんだろうか?)
などとリンは考えている。
それは、孤児であるリンには永久にわからないことだ。考えても仕方のないことではあるが、思いを馳せるのをやめることは出来そうになかった。
と、会話が一区切りしたところで、ホルト中将の視線がリンに向けられた。そして、急に改まった様子で
「さてと、私はこの可愛らしい女医さんに御礼を言わねばなるまいな。」
と、言いながら軽く頭を下げる。リンは内心慌てながらも、いつもの調子で穏やかにそれを受け止めて、笑顔と共に返した。
「とんでもありません。私は医者の卵として当然の事をしただけです。
それよりも、閣下の口内に指を突っ込んだりして、失礼しました。苦しくありませんでしたか?」
そんなリンの言葉にアクセルの心臓は跳ねた。
(そこじゃないだろう!一番問題なのは!!)
知らず知らずにツッコミを入れている自分にまったく気付かないアクセルを放ったまま、会話は続いた。
「いやいや、心臓の方が苦しくて、正直今言われるまでお嬢さんの指が入っていたなど、気づきもしなかったよ、ハハハ!」
「良かったです。」
「ところで、君は、その…アクセルの…?」
「いいえ、違います。」
リンが素早くその言葉を察して、これ以上ない明確さで否定する。アクセルの胸のあたりがツキンと痛んだ。
「昨日は麗しのディスカストス侯爵閣下に群がるご令嬢方から閣下を守る為『虫除け』を依頼されたんです。それでミリアムから急遽、マナー講座とダンスレッスンを受けてああしてあの場に参上したのです。」
「あっはっはっは!『虫除け』か!それは良いねぇ!良いアイディアだ。」
(アクセルめ、意中の女性をダンスに引っ張り出すのにうまい手を考えついたものだ。さすが一流の実業家だな。アイディアの質が違う。)
ホルト中将はそう看破した。アクセル自身さえ気付いていない、本当の意図を見抜いているのは流石である。
「なんにしろ、あの場に君がいなければ、私は今頃死線を彷徨うか、もしくは、冷たい骸となっていたことだろう。礼を言っても言っても言い過ぎることは無いくらい感謝しているよ。」
「いやだわ、おじさま!そんな、縁起でもないことおっしゃらないで!」
ミリアムがその手に縋るのに、ポンポンと軽く叩いて応えながら、ホルト中将は続けた。
「ホルト家の人間はそんなに柔には出来ていない。大丈夫だよ、ミリアム。
ただ、私は自分の体力をどこか過信していたのだね。こんな病気、気の迷いだ、と。
担当医が周囲に広く知らしめ、発作が起きていざというとき、つまり昨晩のように自分でニトロを摂取できない時はだれかに助けてもらえるよう準備しておくべきだ、と言っていた言葉に耳を貸さなかった。」
ホルト中将は言葉を切って、リンを見つめた。
「リンさん、このご恩は決して忘れない。なにか困ったことがあれば、遠慮無く私を訪ねてきなさい。必ず力になろう。君が昨日の夜必死で私の命を救ってくれたように、次は私が君の苦難を退けるための手伝いをさせてもらうつもりだ。」
「ホルト中将閣下…。」
リンは涙を抑えきれずに、頭を下げた。ただただ嬉しい気持ちで一杯だった。
今まで孤児だという出自が原因で散々謂われ無き差別に遭ってきたリンにとって、それは初めての経験だった。
恩を受けたら恩で返す。当たり前すぎることだが、今までリンは恩を与えたことはあっても、それが報われたことはあまりにも少なかった。いつでも人々はリンや孤児院の仲間達が懸命に行った慈善行為をまるでなにかの埋め合わせのように諾々と享受するばかりで、そこには礼の言葉も笑顔も、差別を廃そうという行動もなかったのである。
それでも、シスター・マーガレットは言った。
『汝の隣人を愛せ、ですよ、リン?偏見と欺瞞に歪んだ目で見る者は、真実を見ることはできないでしょう。しかし、それは永久ではない。人は変化するものです。信じましょう、リン。神の御手によってその偏見と欺瞞が拭い去られ、人々が愛と共感を持って私たちを見るようになるその日を信じて、善を行いましょう。』
そうは言われても、リンの中には常に哀しみが深々と降り積もる。それは終わりの見えない長距離走に似て、リンをはじめ孤児院の少年少女達の差別に立ち向かおうとする精神をじわりじわりと疲弊させ、絶望の岬へと追い立てた。
ところが、今、リンの目の前に横たわる白髪の海軍中将閣下はリンの親切に報いよう、と申し出てくれているのである!
ミリアムの口から、リンの出自はホルト中将に知らされている。そんな平民階級の孤児であるリンのことなど眼中にせず、どんな親切を受けようと『医者の卵なのだから』『平民なのだから』と諾々と受け取って、以降、ミリアム達3人の貴族階級だけを相手にしていることだって出来たはずなのだ。しかし、ホルト中将はそれをせず、あまつさえ、リンに礼を述べて恩に報いると明言したのである!
リンは感動と共に涙が溢れて止まらなくなってしまった。
「おやおや、泣かせてしまったか。どうしたね、リンさん?おお、私の言ったことがそんなにいやだったかな?」
「…!!…」
リンは必死で否定する為にかぶりを振った。
そんなリンを見かねたミリアムが助け手を買って出た。泣きじゃくるリンの方を抱いてリチャードと共に病室の外に連れ出してくれたのだった。
後に残されたアクセルは無言でホルト中将の身体を覆うシーツを見ることもなく眺めながら、言葉を無くしていた。
頭の中では、泣きじゃくるリンの姿が繰り返し繰り返しフラッシュバックされた。同時に自分がホルト中将とは正反対の仕打ちをしてしまったことにも気付かされた。アクセルは改めて、痛切に後悔した。出来ることなら…、リンと初めて会ったあの日あの場所に戻りたい、とさえ願った。
そんなアクセルに、この大らかで世話好きな海の男を自認する、頼もしい年長の男が声をかけた。
「アクセル・ギルバート。君は彼女にきちんと気持ちを伝えたのか?」
「…気持ち…ですか?」
「そうだ。君の目線はいつも彼女を捜しているし、あまつさえ、昨晩の美しい彼女を見留めた瞬間には、君の眼は彼女に対する誇らしさと恋情で、燃え上がるようだったぞ?」
「…やめて下さい、ホルト中将、下手な冗談は。」
「…相変わらず嘘をつくのが下手だな、アクセル。少年の頃から君は嘘をつくのが下手だった。
質問を変えよう。覚えがないか?リンさんを見ていて、妙に苛ついたり妙に意地悪な事を言いたくなったりしたことは?よかれと思ってした決断が裏目に出たり、とか?」
あまりに覚えのある事ばかりをずけずけと指摘され、アクセルは無言で眼を逸らした。その行為が、まさに、ホルト中将の言葉を肯定しているのと同じ事であることに、気づきもせずに…。
「君は若くして、ディスカストス侯爵家を継ぎ、実業界を渡り合ってきた強者だ。そんな君が何故?リンさんに対しては感情を抑えきれないのだと思う?ましてや、負の感情を。」
そこまで言われてもアクセルは黙っている。しかし全身でホルト中将の言葉を聞いていることがわかる。眼も合わせずに両肘を太股の上に置いて、手を組み、腰を曲げて俯くアクセルに、ホルト中将は言った。
「私はリンさんは勿論、君とミリアムにも幸せになって欲しい、その為に尽力するつもりだよ?その為には、君はその感情にしっかりと向き合うべきだと思うんだがな?そうすれば、きっと、今よりずっと幸せになれると思うんだが?」
そこまで言われてようやく視線を上げてホルト中将の顔を見たアクセルに向かって、これ以上ないくらいの完璧なウィンクをして、ホルト中将は続けた。
「まぁ、良い。とにかく私からはアクセル・ギルバート、君はきちんとリンさんに自分の気持ちを伝えることを勧めるね。」
「…ホルト中将…。」
アクセルの眼の中に懊悩する男の焦燥が浮かんだが、ホルト中将は笑いながら、そのまま眼を閉じた。
しばしの間その寝姿を眺めていたアクセルであったが、やがて立ち上がり、部屋を出た。
しかし、未だアクセルの心中では自分がリンに対して抱いている感情にうまく名前をつけられない『傷ついた少年』がふて腐れたようにそっぽをむいて、まったくアクセルにその気持ちを明かそうとしないのだった。




