21.銀のカプセルと白い錠剤
リンは必死でその言葉を探した。ホルト中将の唇が、紡いでいるたった一つの言葉。それがなんなのかを突き止めればあるいは…?
(でも、毒を仕込まれた、っていうダイイングメッセージだったらどうしよう?それじゃあ、医者の卵である私の出る幕じゃなくなってしまう。)
リンの中に焦りが生まれた。
(いいえ、そんなはずはない。顔色は悪いけど、痙攣も意識を失った様子も見あたらないもの。呼吸は苦しそうだけど、気管が詰まった感じもないからアレルギーでもなさそうだし。即効性の毒物であればこんなに時間はかからないし。だとしたら…。)
と、その時だった。後ろからのぞき込んでいたアクセルの低い声がリンの耳に飛び込んできたのは。
「なんだ?なんて言ってる?
イ…?オゥロ?シィオ…ルオ?イオロ?」
アクセルもまたリンに負けない必死さでホルト中将の唇を読もうとしていた。そして、アクセルが拾ったいくつかの言葉がリンのデータベースに反応した瞬間、リンの頭に一つの言葉がひらめいた!
(イオロ…イ…オロ………ニトロ!!!)
「ニトロ!」
リンは叫んだ。
(ニトロ!ニトログリセリンだわ!狭心症発作の特効薬!だとしたら、きっと身につけていらっしゃるはず!)
リンはさっき自分自身でゆるめたホルト中将の襟元に再び手をかけ、更に開こうとむんずとつかんでむりやり引っ張った。
しかし、作りの良い最上級の海軍礼服はびくともしない。ピカピカ光るステンレス製の鉤が見たこともないほどびっしりと並んで、上衣の前身頃を隙無く埋めている。
(ああ、もう!)
イライラとその鉤をはずし始めたリンだったが、そういった特別な衣服の着脱は初めてのことで、とにかくうまくいかなかった。
無理もない。リン達庶民にとって効率はなにより重要なものである。脱ぎ着にいちいち人の手を患わせたり、時間がかかったりする衣服など着ている暇がないのである。そんな暇があったら一つでも二つでも仕事を済ませることのようが重要であろう。
その点ホルト中将の着ている軍礼服は非日常かつ非効率的の権化のようなシロモノだった。戦争という本来の「現場」を離れ、権威をアピールするためだけに作られた礼服であるその煌びやかな詰め襟の上衣には、デザイン重視の金メッキされたモールにテープにボタンが縦横無尽に縫い止められ、筋肉を自慢する軍人達の厚い胸板に完璧に沿うようにと、普通の2~3倍もの数の鉤が着けられているのであった。
やっと上から2つ目の鉤を苦労してはずして息をついたリンの手元を見ていたアクセルは、無言でそれを引き取った。驚いて顔を見上げるリンにむかって顔を近づけ、囁くように宥めるように言う。
「上着を脱がせるのか?」
そう問うアクセルに向かってリンは無言で肯いた。少し身体をずらすと、アクセルは器用な手つきでその鉤を外していく。さすがに慣れている。後でそれを言うと『寄宿学校時代に散々先輩の世話係をやらされたからな』と苦笑いしていた。
「リチャードとミリアムに頼んで、この部屋から人を出した。もうすぐ4人だけになれば、しゃべれる。」
相変わらず極至近距離で、アクセルはリンに囁いた。もしもこんな所を見られたら、明日のタブロイドの中面に興味本位の記事がでそうなくらいの近さだった。ディスカストス侯爵の結婚は社交界にとって非常にホットな話題なのだった。
(誰にも見られていないことを祈ろう。)
真面目に礼服の鉤をはずしながら、アクセルはそんなことを考えている。
一方リンはアクセルがなんとか開けてくれた10cmほどの胸元にその手を突っ込んだ。下に着ているシャツの下へと更に指を入れると、指先に確実に鎖の感触を捉える。
「ありました!」
真剣な声でリンが言うと、アクセルは鉤をはずしていた手を止めたが、
「続けてください。上衣を脱がせます。そのほうが苦しくないから。」
鎖をたぐりながら言われて、再び鉤をはずす作業に戻った。
「アクセルさん、全員に廊下に出てもらいました!リン、もうしゃべっても平気だよ?」
「リン、おじさまは、おじさまは大丈夫?!」
リチャードとミリアムから矢継ぎ早に話しかけられたが、リンは応えることができなかった。なぜなら、手元にたぐった鎖の先についているちいさなカプセルをようやく指先に感じたところだったからだ。
果たしてその小さなカプセルはシャツの外へ、そしてリンの手の中に現れた。
それは縦2センチ、直径1センチほどの、円筒型のカプセルコンテナで、銀色の鎖でちょうどロケットのようにペンダントになっていた。リンがその中間の段差部にツメを引っかけて上下に引っ張るとそれは簡単に2つに別れ、中から小さな白い錠剤が1個、転がり出てくる。
リンはそれをそっと摘むと、ホルト中将の口をあけ、そのまま自分の指ごと舌下に入れた。そして2本の指で中将閣下の舌をグイグイとマッサージしながら、こう言った。
「ホルトさん、聞こえますか?聞こえたら、まばたきしてください。ホルトさん!」
じっと目を閉じていたホルト中将がわずかに目を開く。リンはすかさずホルト中将の頭を持ち上げその下に自分の膝を潜り込ませると、更に声をかけた。
「ホルトさん!ホルトさん!大丈夫ですか?返事をして下さい!ホルトさん!!」
「うぐぐ…ううう……。」
ホルト中将が見るからに苦しそうに呻った。リンの指はまだ口の中に入ったままである。アクセルはそんなリンの横暴ぶりに唖然としながら、二人のやりとりを眺めた。
「…だめだ、唾液が足りない…。」
リンは唐突にそう呟くと、急に身をかがめた。その唇がホルト中将の口に届くと見えた寸前、アクセルの手のひらがそれを阻む。
「な、何をするつもりだ?!」
「なにって、見れば分かるでしょう?ニトロは舌下錠です。唾液で溶けた溶液が口の粘膜から吸収されて初めて効くんです。でもホルトさんの口中は今極度の緊張と過呼吸気味のせいでカラカラ。唾液が足りないのです。ですから、それを補う為に口中に私の唾液を補給しようとしました。」
「だ、唾液を、補給?!」
「ああ、もう、アクセル、邪魔しないで!早くしないと取り返しの着かないことになってしまう!」
そう言うリンはすっかり医者の顔をしており、アクセルは非常事態だというのに、ついつい一瞬見惚れてしまった。しかしすぐに立ち直り、すぐ脇のテーブルの上に置いてあった水のグラスをひっ掴むと、リンに手渡した。
「水だ。こっちの方が良いだろう?」
「あ!ありがとうございます!勿論です。」
そう言ったリンの言葉に安心してしまい、ホルト中将の口元から手をどけてしまったアクセルだったが、次の瞬間再び驚愕の光景を目にすることとなった。
なんと、リンはグラスの水を一口口に含むと、なんのためらいもなくホルト中将の唇に突っ込んでいる自分の指を伝わらせて、与え始めたのである!
アクセルは驚きのあまり呆然としてそれを眺めた。
(いったいなにをしているんだ…?)
そうこうしているうちに、極少量の水がゆっくりゆっくりとその口中に注がれたホルト中将の舌が少しずつ動き出した!
「そうです、そう、いつものようにゆっくり。飲み込んではいけませんよ?そう。そうです。落ち着いて?」
ホルト中将の舌がかすかではあるが絶え間なく動いていてることを確かめると、リンはそっとその指を口中から抜いた。そして手にしていたシルクの手袋を外すと、グラスの水で湿らせ、ホルト中将の額と顔の汗を拭った。冷たさが心地よかったのか、それとも、ニトロが効いて心臓も呼吸も苦しくなくなってきたのか、目に見えてホルト中将が回復の様子を見せ始めたのを見計らって、アクセルが一人廊下を見に行くと、丁度屋敷の玄関を救急隊員が入ってくるところだった。
ストレッチャーに乗せられ、毛布で身体を覆われたホルト中将は、完全に元の通りとはいかなかったが、かなりしっかりとしてきていて、アクセルとその身体に隠れるようにそっと伺うリンの手をしっかりと握った。
「アクセル、明日は必ずこのお嬢さんを連れて見舞いに来てくれ。」
「勿論ですわ、おじさま!必ずお伺いします。私たち4人で。だからしっかりなさって、今日はよーくおやすみになって下さいね?」
複雑そうに微笑むアクセルの横から、ミリアムが勢い込んで会話を引き取る。ホルト中将は力無く、しかし、しっかりとした視線でもって笑い、さりげなくリンを見た。リンは無言で頭を下げ、救急搬送されていくホルト中将を見送った。
そしてディスカストス侯爵一行様4名は、そのまま間髪入れずにスピレッツァ邸を辞して帰宅したのだった。
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こうしてリンの記念すべき生まれて初めての舞踏会の夜は終わった。
豪華な晩餐も、あんなに練習したダンスも披露することはなかったが、アクセルにとってもリンにとってもそれは願ったり叶ったリな成り行きだった。
4人はディスカストス侯爵家別荘にたどり着くと同時に、それぞれの個室に戻って、寝支度をし泥のように眠った。特にリンは疲労を濃くしており、待ちかまえていたスタイリストが髪の毛からピンを抜き、メイクのクレンジングしている間にうつらうつらと居眠りを始めてしまう始末だった。
その後スタイリストに2人がかりでベッドに運ばれたリンは完全に眠り込んでおり、その夜の彼女の深い疲労を見て取って、2人のスタイリストは苦笑いをした。
しかしその一方で、その顔はとても幸せそうに見えた。
リンの胸中は生まれて初めて、医者として役に立てたかも知れない、という充実感に充ち満ちていた。
そんなリンは、その夜、夢の中で飛ぶように跳ねるようにまるで羽を付けた生き物のように軽やかにダンスに興じる自分を感じて、なんとも幸せな気分になったが、朝起きてみるといったい誰と踊っていたのか皆目思い出すことが出来なかった。
その相手は優しく、力強いリードでリンを踊らせ、時に笑ってはリンの頬に繰り返し繰り返しキスをしてくれた。まるでおとぎ話の王子様のような人だったが、朝、起きた瞬間にその顔も声もすっかり忘れてしまったのだった。




