16.ミリアムの心配
リンとミリアムが準備を整えて、2階から下りていくと、リチャードが一人、リビングで待っていた。
「お待たせ!」
オートクチュールのドレスを、着慣れた様子で裾さばきしながら、足取り軽くリビングへ入って行ったミリアムが声を掛けると、テレビでサッカー中継を見ていたリチャードが素早く立ち上がり、ミリアムの側に歩み寄った。
「ミリアム、良いね!そのドレス。君の髪の色にピッタリだ!きれいだ、ミリアム。…キスして良いかな?」
「ふふっ、ありがとう、リチャード。」
リチャードから優しいキスを両頬に受け、満足そうに礼を返すと、ミリアムは自分の後ろに隠れるように立っているリンに振り向いて言った。
「さ、リン、リチャードにあなたの変身ぶりを見てもらいましょう?!」
そうミリアムが促すと、リンが諦めたような表情で居心地悪そうにリビングに入ってきた。
と、その姿を一目見てリチャードは言葉を失ってしまった。
「…き、君、本当に、リンなの?」
「アハハハハ!勿論よ、リチャード!この美女は正真正銘、リン・バクスターよ!!ね?驚いたでしょ?」
婚約者が他の女性に目を奪われるのを鷹揚に笑い飛ばしてミリアムが言った。
「驚いたなんてもんじゃないよ!いやぁ、驚天動地とはこのことだ!」
「…変じゃないかな?リチャード?」
「なに言ってるんだい、リン!綺麗だよ!嘘みたいに綺麗じゃないか?!君、鏡を見てないのかい?」
「…うーん、正直、よく分からないのよ。いつもと違う、ものすごく違う、ってことくらいしか。」
リンは正直に言った。それが本音だったからだ。
「もう、さっきからこの調子で…。いくら私やスタイリストが『綺麗だ』って言っても全然ピンと来てないみたいなの。」
呆れたようにミリアムが言う。しかし、リンはそれにはまったく構わずに、周囲をきょろきょろと見回して言った。
「それより、リチャード、かっ…アクセルは?」
「それが、君たちが部屋に籠もった後すぐ、ホルト中将閣下から使いが来てね。色々つもる話もあるから、アクセルさんだけでも早めに来てもらえないか、って言ってきて。2時間ばかり前かな、一足先に行ってしまったんだ。」
「まぁ~~!……におうわね。」
「え?に、におうって?」
右手に持った扇で左手のひらをパシパシと叩きながら、ミリアムが顔を顰めた。
「いかにもイザベラが考えそうなことじゃない?ホルトおじさまをダシにして、お兄様を呼び寄せようなんて。
きっと今頃お兄様ったらイザベラの上手くもないピアノを聞かされたり、ベタベタくっつかれて不愉快な散歩につき合わされたりしてるに違いないわ…。」
「ええっ?じゃ、ホルト中将云々ってのは、嘘なのかい?」
正直が服を着て歩いているようなリチャードが、まったく気付かなかった、という体で目を丸くした。
「ええ、イザベラはそれくらいの嘘は平気でつく女よ。何てったってハイエナ令嬢グループのリーダーなんだから!」
どうやらミリアムはイザベラを酷く嫌っているらしい。随分な言いようである。
「だとすると…あー…、まず間違いなく、お兄様のご機嫌はかなり斜めになっちゃってるわね…。」
「えええっ?!」
そこに一番敏感に反応したのはリンだった。
「ご機嫌斜めなアクセルさんか…。」
リチャードまで顎に指をあて、深刻そうに呟いている。
「ミリアム、ご機嫌斜めなお兄さんはどうなっちゃうの?」
リンは怖々問うた。
「一言で言うと、気むずかしくて手に負えない感じ?マナーは完璧なのよ?あまり親しくない人に対しては、だけど。
身近な人間としては…、八つ当たりされる、って表現が一番ピッタリくるわね。」
「八つ当たり?!」
ミリアムの言葉を聞いて、リンは思わず笑ってしまうのを堪えなければならなかった。同時に安堵の念を覚えてホッとする。
(…どこまで同じなんですか、孤児院の男の子達と…閣下。
うん、機嫌を損ねて、身近な人に八つ当たりする『男の子』の扱いだったら大丈夫。慣れてるし。)
そんなリンの表情の変化を見とがめて、ミリアムが不思議そうに言った。
「えー?なんでなんで?リン、どうしてあなたそんな、ホッとした顔になっちゃうの?」
「それはね、ミリアム、私は八つ当たりされるのに慣れてるからよ。」
そんなリンの言葉を聞いて、ミリアムは改めてリンへの深い尊敬の念を確認せずにはいられなかった。
(八つ当たりに慣れてる、なんて!)
それでいて、リンの表情には無理したところがひとつもなく、ただただ聖母のように自分に降りかかる不合理なことさえ、全てを受け入れる、本当の『強さ』が垣間見えた。
更に言えば、今日のリンは、特に美しく装っている。元々それなりに可愛らしい容姿をしているのだが、今回はその可愛らしさをより引き立てるために、プロのスタイリスト達が腕によりを掛けてありとあらゆるテクニックを駆使してくれたのだ。今のリンは、同性でありいつも一緒にいるミリアムの目から見ても実に魅力的だった。
そこに持ってきて、扱いにくいアクセルの相手をする、という慣れたことに対応することになり。つまりは、かえって緊張が払拭され、リラックスしたことで表情が自然になり、内面からにじみ出るなんともいえない柔らかな雰囲気が加わったのである。
(うわぁ…リン、マリア様みたいなその微笑みって…。
まずい、まずいよ…。これは、お兄様にしっかり言って、リンを周囲の男性達からガードしてくれるように念押ししておかなくちゃ!
無用の注目を集めることで、リンの素性が詮索されることにでもなったら、どんな嫌な思いをするか、わかったものじゃないわ!ダメダメ、絶対ダメ!リンのことは私たちが守らなくっちゃ!)
そんなふうに我知らず両手を握りしめて、ファイティングポーズをとるミリアムを見て、リチャードは小首を傾げた。