後日談2 いつか、その日が来るまで(4)
遠くから、夜鳴き鳥の鳴き声の聞こえるバルコニーで、コンラッドは一人、月を眺めた。
静かだった。
その昔、ようやく母と結婚した父が新婚旅行代わりにしばらく引き籠もったという郊外の別荘。アザリスの首都・デリースでのレセプションの翌日から、しばしの休暇を得たコンラッドは一人、この屋敷にやってきた。
留守居を守っている夫婦者の召使いはまるで空気のように目立たず、完璧なホスピタリティを提供してくれた。おかげでほぼ完璧に近い"孤独"を手に入れたコンラッドは、その中に閉じこもったまま、思う存分鬱々と物思いに耽った。
しかし今夜、彼は一人ではなかった。
一昨夜より、密かに到着した優しい瞳が二対、彼をひっそり見守っていたのである。
片方は榛、もう一方は曇天を写した海のような深い灰色の瞳を持つ二人は、苦悩に沈む末息子の様子を見ながら、声をかけるタイミングを計っていた。
そしてその夜ーー。
満月に誘われ、バルコニーで物思いに耽っていたコンラッドの傍らに、現れた人影が一つ。
「眠れないのね?」
突然話しかけられたコンラッドは物憂げに顔を上げた。無言を了承の返事と取って、リンはコンラッドの横たわる長いすと直交する位置にある一人掛けの籐椅子に腰掛けた。
「母さん……」
「少し、疲れた?」
母が問うているのが、帰国の為に30時間近くかかった移動のことでも、ましてやレセプションのことでもないことは、瞬時にわかった。コンラッドは信じられないほどの素直さでコクリと頷いた。
こんな風に弱音を吐くのは、自分らしくない……。多分、他のどんな人間に対してであってもこんな風に弱みは見せられなかったと思う。
しかし、相手はバクスター医師である。誰よりも長い間、アザリス国内だけでなく、海外において、心的外傷を追った人々のケアに従事してきたプロフェッショナルだ。しかも、最愛の母親。この世で最も信頼する人物の中の一人である。
タイミングは完璧だった。コンラッドの気持ちがするっと解けていく。暖かな夜。透徹な月の光。遠くから響く夜鳴き鳥の美しい声ーー。
視線をあげれば、限りない包容力を感じさせる微笑みを浮かべた、大好きな母親がこれ以上ないというくらいの愛情を浮かべて頷いた。
「そう」
言葉少なに相槌を打つ母親の肩に掛かった束ね髪を眺めながら、コンラッドは口を開いた。
「俺が派遣されていた地域では、女児差別が酷くてね……。
村の呪術医に、胎児が女児だと知らされた途端、中絶の相談に来る母親が後を絶たない……。いくら説得しても、男でないと畑を耕せないとか、折角育てても嫁に取られてしまうとか、持参金を用意できないとか言って聞く耳を持ってくれないんだ」
「……」
母は無言で頷き、聞いている。コンラッドは胸にたまった鬱憤を吐き出すように言葉を続けた。
「1ヶ月くらい前かな……。
ボロボロになった女の子が運び込まれた。
身体中、痣と裂傷だらけ。その上……性器にひどい裂傷があった。明らかに性的暴力の痕跡だった」
そこまで言って、大きく息を吸う。その酷い有様がありありと浮かんだようで、コンラッドは親指の付け根で両目をぐりぐりと押した。
「その子はまだ12才だった。一月前に結婚して隣村の45才の男に嫁いだのに、一月も経たずに実家に逃げ帰ってきたっていう話だった。
暴力の原因は……『学校に行きたい』と言ったことだ」
コンラッドは大きく息を吸った。涙を堪えて喉の奥の塊を飲み下す。
「結婚したら学校に行かせてやる。男はそう騙して少女に結婚を承諾させた。それなのに、一刻も早く子どもを産めと、未だ生理も来ていない未成熟の身体を苛まれて……。
挙げ句の果てに絶望した少女に『嘘つき!』と詰られ、腹を立てて暴力をふるった……。
俺の所に連れてこられた時、彼女はすでに感染症に冒されていて、手の施しようがなかった……」
「そう……」
「彼女を連れてきた実の母親が言うんだよ、なんとか元通りにできませんか?って。健康体に戻して婚家に返さないと、体面が悪い、って。
だったら、何故もっと早く連れて来なかったのだと言ったら……、出戻りなんて……家の、恥……だから、って……。夫に口答えして、その上逃げ帰ってきた娘に罰を与えていたのだ、と。そう言うんだ……」
堪えきれなくなったコンラッドの目から、涙が溢れた。
「……彼女はどんな気持ちだったろう?
傷だらけでボロボロの身体に鞭打って、ろくな食事もせずに、山を越えて逃げ帰ってきた家で実の母親に詰られて、手当もしてもらえず、暗い家の中に閉じ込められて……」
「そうね……」
「ーー間もなく彼女は死んだ。
秋の始まりの、冷え込んだ夜だった。
感染症からくる高熱とトラウマによる妄想に襲われながら、七転八倒して……最後は痙攣のせいで呼吸困難に陥って……苦しみ抜いて死んでいった……。
彼女の死体は、村のはずれにある無縁墓地にうち捨てられるように葬られた……。
彼女を騙して連れ去った夫は、結婚してすぐに死んだ嫁なんて縁起が悪い、と言って遺体の引き取りを拒否した。
一方、実の母親もまた、婚家から逃げ帰ってきた娘なんて世間体が悪い、と自分たちと同じ墓地に埋葬するのを拒んだ……」
コンラッドの瞳に、強い怒りが浮かんだ。死んだ後にまで鞭打つような仕打ちをした人々への、激しい怒りが再燃し、彼の心を怒りの炎で焼いた。
しかし次の瞬間、怒りと同じくらいの苦悩がその眼差しを凍りつかせるように固く閉ざした。彼の瞳を無表情に見える程の虚脱が覆っていった。リンはその一部始終を見ていた。胸がひどく痛んだ。
そんなリンの悲痛な表情に気付くこともなく、コンラッドは続けた。
「……以来、その村の人々の診療をする気が失せちまった……。俺は医師失格だ……」
そこまで言うと、コンラッドはその大きな身体を長いすの上で丸め、両手で顔を覆った。
リンは立ち上がると、可愛い末息子の身体を抱き抱えた。
「……」
全身をふるわせ、嗚咽をかみ殺すコンラッドの身体を抱きしめ、その顔を覆っている手の甲に頬ずりしながら、リンは言った。
「コンラッド、あなたは立派な医者よ。傷ついた彼女を癒そうと努力したのでしょう?手を尽くしたのでしょう?」
「……でも、た……助け……られなか……った!!」
「辛かったわね……助けられなくて、悲しかったのね……」
「お……れはっ!なにもっ……なにも、できな……くてっ……!!」
「あなたは全力で向き合ったのね……」
「……わあああぁぁ!!」
コンラッドはようよう身を起こすと、リンに縋り付いて号泣した。それは身を削るような咆吼、慟哭だった。
小さな少女がその過酷な人生の果てに、悲惨な死を迎えた時、コンラッドはこんなふうに泣けなかったのだろう。
人の悲しみは、まるで枯れ川のようだとリンは思う。ポタポタと一滴ずつその流れをつくって、地底を通り流れていき、そして水源から何百キロも離れた場所で地表にわき出る。
コンラッドの悲しみもまた、そんなふうに彼の中に溜まり、巣くっては、じわりじわりと心を侵していった。そして今、故郷でリラックスしている状況の中、ようやく人の目に触れる形で表出できたのだろうーー。
リンもまた、自分の2倍はある息子の大きな身体を抱き留めながら、その悲しみを、怒りを思って泣いた。小さな少女の死を悼んで泣いたーー。