15.ダンスのレッスン
そして、その日の午後は矢のように過ぎ去った。
ミリアムと共にラクロワのセミ・オートクチュールを着付けられたリンは、ぐるりと取り囲んだお針子達によって山のようなピンを打たれた。
ミリアムに比べてウェストが細いわりにヒップが豊かなリンの体型に合わせてドレスを直す為に、2名のベテランお針子とそのアシスタントが更に2名、合計4人の人間がこれからたった6時間で作業して、夜7時から始まる夜会に間に合わせるのだという。
(なんという贅沢!信じられない!ただ舞踏会に出るだけなのに、そこまでしてドレスを身体に合わせるなんて!伸縮性のある生地で作れば、そうした手間もないのでは…?)
リンはその手間と経費を思って目眩を覚えた。熟練職人を4人も、しかも6時間チャーターするなんて!それもただ、ドレスを体型に合わせる、そのためだけに!
更に、それを当然のこととして平然としているミリアムにもほとほと階級の差を感じてしまった。
一方、そんなミリアムはと言えば、買った時はピッタリだったはずのドレスがどうやら少しキツイらしく、結局リンと同じく少しお直しすることになった。曰く『この別荘のシェフの腕が良いから』とのことだ。ものは言いようである。そういえば、ミリアムがつい、食べ過ぎて太ってしまったことに+な理由がつく。だれも困らず、誰も傷つかないばかりではなく、シェフにはお褒めの言葉と解釈できる。
(これが貴族、傅かれて生きるということなのね。)
またもや親友の新たな一面を発見したような気分になっているリンである。
お針子達が作業部屋に籠もってしまうと、すぐにダンスのレッスンが開始された。
「とりあえずワルツはマストね!あとはワルツのステップを音楽に合わせていけばなんとかなるでしょう!」
そう宣言したミリアムの教師ぶりはすこぶるスパルタ方式で、リンはほとんど舞踏会への参加を諦める寸前まで、精神的に追いつめられるところだったが、それを救ってくれたのは鷹揚に微笑みつつ、何度足を踏まれても根気よく相手役を務めてくれたリチャードだった。
もちろん、そんなリチャードに感謝の笑顔を向けるリンの横顔とそれを受け止めてはにかむように笑うリチャードの様子を、時折覗きに来ていたアクセルが胡乱気に眺めていたことは、グッドマンにしかあずかり知らぬ事ではあったが。
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やがて急ごしらえのワルツのステップが『なんとか様になった』とのミリアムのお墨付きを得て、各自自室へ戻り、シャワーを浴びた。
さっぱりしたところで、本格的な夜会の準備の前に、とアフタヌーン・ティーが用意された。
グッドマン自慢の茶器は代々伝わるリアル・アンティークで、藍の鮮やかなシノワズリの逸品である。リンはくれぐれも手を滑らせないように、と最初は緊張していたものの、会話が弾むに連れやがてそんな事は頭から飛んでいってしまった。それほど、4人で摂った午後の軽食は楽しいものになった。
とりわけアクセルは、かつて体験したことのない高揚感を感じ、我知らず何度もリンを見つめては悦に入った。活気があるにもかかわらず安心感もある。みんなが心の底から本心を言っているのに、それを嗤ったりあげつらうものもなく、ただただ楽しい会話が続いている。今までいくつもの夏をミリアムとリチャードと共に過ごしてきたが、こんなに満ち足りて穏やかで楽しい雰囲気になったことはない、とアクセルは思った。
(いや、ミリアムとリチャードだけじゃなく、いまだかつて私は他人と会合を持つ時にこんな楽しい気分になったことがあっただろうか?いや、ない。)
と、唐突にアクセルの瞼の裏にダンスをしながらリチャードと楽しげに笑い合うリンの横顔が浮かび、妙にイライラした。
そんな主人の視線の行き先とその瞳の中に浮かぶ熱いなにか感情の片鱗を察知したグッドマンはほくそ笑んだ。
(よしよし、良い傾向ですね。これで旦那様がご自分の気持ちに気付くのと同時に、バクスター様も少しで良いから旦那様を意識してくだされば完璧なのですが・・・。)
「・・・まぁ、焦りは禁物、というところでしょうかね?」
「え?なに?グッドマン、なにか言った?」
ミリアムが振り向いた。
「いえいえ何でもございませんよ?お嬢様。ところでそろそろ準備を始めませんと。」
「あら、いけない!もうこんな時間?!リン、行きましょ?」
ミリアムはリンの手を取ると、自分の居室の方へと向かった。
手を引かれながらふと振り向いたリンの視線の先には、妙に真剣な眼差しでリンをじっと見つめ返しているアクセルがいた。その青灰色の瞳に射抜かれたリンは、突然、無性に恥ずかしくなり、慌ててその緑がかった榛色の目を逸らすのだった。
にぎやかな女性陣が去り、静けさを取り戻したリビングに残されたリチャードは、ウキウキしながら、未来の義兄に言った。
「楽しみですねぇ!アクセルさん。二人ともきっととても可愛いだろうなぁ!」
ところが、その嬉しそうな緩んだ顔を見たアクセルは、思わずこめかみが引きつる程の苛つきを覚えた。それは、その瞬間リチャードが、間違いなくミリアムだけでなくリンのドレス姿も思い浮かべて、ぽーっとしていることがわかったからだった。どういうわけか、リチャードが急に憎々しく思えきて、アクセルはその気持ちを静めようと、手をぎゅっと握った。
そして、アクセルは不機嫌そうにコーヒーカップをソーサーに戻すと、
「ミリアムはそうだが、ミズ・バクスターはどうかな?」
と吐き捨てたのである。
「えっ?」
これにはリチャードも驚いた。いまだかつてどんな人間に対しても、こんな酷い口調でこんな辛辣なことを言うアクセルを見たことがない。
リチャードにとってアクセルは、常に抑制の利いた口調と思考で、どんな場所でも支配者を任じる、頼れる兄貴といった存在である。
初めて屋敷を訪問して互いの両親込みで顔を合わせた時も、プレップスクールで入学直後に監督生をしていたアクセルに話しかけられて周りの新入生達に羨ましがられて有頂天になった時も、どんなときでもアクセルは勤勉・公平でリチャードの目標であり、目指すべき、尊敬すべき人物だったのである。
ところがどうだろう、今の発言は?
リチャードは戸惑った。彼は、尊敬するアクセルが先の一言のような『差別的発言』を平然と舌に乗せるような、俗物的で下劣な人物であるとはとうてい思えなかった。リチャードは今、自分が聞いたことはなにかの間違いに違いない、と思おうとした。
ところが、追い打ちをかけるように、
「彼女は所詮孤児だ。オートクチュールはおろかプレタポルテでさえ、着たことはおろか、触ったこともないだろう。きっと『着せられた感』のある、ちぐはぐでみっともない感じになってしまうと思うが?」
などとアクセルが続けたので、リチャードはすっかり混乱してしまった。
「そうですか?」
かろうじて、そんな無難な相づちを打つと、リチャードはティーカップに口を付け、目を伏せ目がちにして、恋人の兄であり、いずれの場に置いても『ミスター・パーフェクト』の異名を取ってきた、敬うべき先輩をそっと盗み見た。
そんなリチャードの視線を感じつつも、なぜか?リチャードがリンに対して好意的に振る舞うことに苛立ちを抑えきれないアクセルなのだった。




