145.海に降る雨 【最終話】
ここまでご愛読いただき、誠にありがとうございました!
最終回です!
シスターに教えられて、キッチン脇の裏玄関を出ると、アクセルの目に飛び込んできたのは、灌木の茂みが点々と散らばる、広い裏庭だった。
秋の気配が濃くなりつつある、少し勢いの落ちた雑草が覆う一面の草原は、申し訳程度の杭の立てられた切り立った崖っぷちまで続いており、その中途辺りに位置する古ぼけた素朴なブランコに座って海を眺める小さな後ろ姿を認めて、アクセルは自分でも驚くほどホッとした。
崖に向かって緩やかに下っている草原を歩いて、リンのすぐ後ろに立つと、リンの手の上から、そっとブランコのロープを握った。
一瞬ビクッとしたものの、リンはすぐに身体から力を抜いて振り向き、ふわりと笑うとアクセルの暖かな胸に寄りかかった。
「何を見ていたんだ?」
旋毛に唇を押し当てながらアクセルは言った。雨の気配にしっとりと湿ったリンの髪の毛からは、ほのかに手製のラベンダーシャンプーの匂いがした。
「海を……海と空を見ていました」
まるで夢から醒めた時のような茫洋とした口調でリンは応えた。
「そろそろ戻ろう?もうすぐ君の弟妹達が学校から帰ってくる。シスターがアップルパイを振る舞ってくれるそうだ」
どこか心ここにあらずな様子のリンに、アクセルは少しせっかちに言った。その視線を取り戻したくて、無意識に後ろからリンの顔を覗き込む。
リンはそんなアクセルの行動に、その気持ちを見抜いたように、微笑むとそっとその頬にキスをして続けた。
「あの日ーー、閣下と初めてお会いしたあのウィリアムズ・カレッジの面会室で」
唐突に語り出したリンの声音に、アクセルは
「うん」
とだけ相槌を打った。波の音と風の音に溶け込む、リンの落ち着いたアルトを、一言も聞き漏らすまいと、ひどく真剣な表情で。
一方、アクセルのぬくもりを感じながら、シリアス過ぎる表情に、くすりと笑みを漏らしながらリンは言葉を続けた。
「閣下の灰色の眼を見た時、この風景を思い出したんですーー」
そう言ってリンはブランコから立ち上がると、右手で目の前の崖の上から望む海を指し示した。
アザリスのこの地方では、この季節、雨がちな天気が続く。今日も空はどんよりと曇って、灰色の雲が海の上を覆っている。その色を写した海もまた、暗く鈍色に沈んでいた。
「ほら、雨雲が見えるでしょう?あの雲がもうすぐ、ここにまでやってきて、雨を降らせる。
草の上にも、岩の上にも、このブランコの上にも雨は降りかかる。もちろんあの海にも、雨は降り注ぐ」
リンが一歩前に出た。つられて一歩前に出そうになったアクセルを、ブランコの椅子がやんわりと邪魔をする。更に一歩を踏み出していくリンに置いていかれまいとして、アクセルはブランコを邪険に振り払うと、リンの横に立った。
「小さい頃から、悲しいことがあると、ここに来て海を見るんです。
そうしていると、雨雲がやってきて私の上にも平等に雨は降りかかる。
そうして、ずぶ濡れになってしまえば、もう、顔を濡らすのが涙なのか雨なのかわからなくなるでしょう?
そうしてから孤児院に戻ると、シスターが大騒ぎでタオルでゴシゴシ拭いてくれるから、くすぐったくてくすぐったくて、ゲラゲラ笑っているうちに、どうしてあんなに悲しかったのか、どうでもよくなってしまうんです」
リンは、一瞬だけ足元に視線を落としてから、そっとアクセルの手を引いて歩き出した。
「この場所にやって来る海に降る雨はいつだって私の味方でした。いつだって厳しくて、冷たくて、そして絶対的に『平等』だった。どんなものにも、この空の下にあるものには、同じように降りそそぐ。
その無頓着さと絶対的に抗えない強さが、私は好きだった」
そこまで言って、リンは唐突にアクセルに向き直った。
「あの日--。あのウィリアムズカレッジの面会室で、閣下に初めて会った時。なぜだか、ここから眺めた海に降る雨を思い出しました」
「えっ?」
アクセルは驚いた。そして、一気にきまりの悪い思いがこみ上げ、つい、リンから目を逸らしてしまった。
当然である。
あれは、アクセルにとって人生で最も一番思い出したくない、恥ずかしい出来事だ。よりによって、あの時最低最悪だった自分が、最も傷つけた、当の本人であるリン自ら、引き合いに出されてしまうとは!
しかし、そんな相槌さえ打てずにいるアクセルの心中を知ってか知らずか、リンは俯くアクセルの顔を下から覗き込みながら、続けた。
「閣下の瞳が灰色だから、っていうのももちろんあると思う。
でも、それだけじゃない。
私が見たのは、その、圧倒的な強さだった。
たった一人の大切な妹を守ろうとして、敵愾心をむき出しにして私を睨みつけた閣下の瞳の中の愛情に、多分ーー、いいえーーきっと私は、恋をしたーー」
「えっ?!」
あまりに思いがけない告白に、アクセルは言葉もなくただ、驚きの声を上げるしかできない。
「どうしてでしょうね。あんなふうに詰られながら、ずっと感じてた。閣下の中の『嘘つきな子ども』をーー」
「嘘つきな子供……」
呆然と呟きながら、アクセルの中でパズルのピースがはまっていくような気がした。
小さい頃からずっと、ディスカストス侯爵家の後継者として、一人、アザリスで暮らしながら、アクセルだって本当はいつだって家族と一緒にいたかったのだ。父と母とミリアムと、家族みんなで暮らしたかった。……寂しかった……。
しかし、アクセルは両親にもミリアムにもその気持ちを打ち明けることはできなかった。
遠い異国で暮らす両親に当てた手紙の書き出しと結びの言葉はいつだって決まって、『僕は元気です』『立派なディスカストス侯爵になれるように頑張ります』ーー。アクセルは嘘をつき続けていた。
それでも弱気になることはあった。風邪を引いた時、定期テストで首位がとれなかった時、ポロクラブでレギュラーを奪われた時。就寝前のホットミルクを飲みながら、アクセルはささやかな八つ当たりをした。
『父様と母様は、僕のことなんか、どうでもいいんだ……』
拗ねる御曹司に、養育係だった筆頭家令執事は言ったものだ。
『どうでも良いと思っていたら、きっと今頃、ベロベロに甘やかされて、頭の悪い、依存心の強いばかりのバカな貴族の小僧になっていたでしょうね』
そのあまりにあけすけな言い方に、拗ねる気持ちも吹っ飛んで、『また明日がんばろう』と思えたことを思い出すーー。
そんな風にして、グッドマンに時に助けられ、時に千尋の谷に突き落とされ、必死でディスカストス侯爵家の立派な跡取りとなれるよう生きてきた。いつだって両親には、自分が寂しいと感じていることなど、微塵も感じさせまいと嘘をつき通してーー。
(そう……、つまり自分はまさに『嘘つきな子ども』だった)
リンの言葉を聞いて、アクセルはびっくりするほど鮮明にその気持を思い出した。まるで、一瞬のうちにタイムスリップして、過去の自分に戻ったかのように感じるほどに。
そして次の瞬間、そんな心の中にしこりのように残っていた寂しさや侘びしさが、リンによって洗いざらい払拭された夜を思い出し、稲妻に打たれたかのように打ち震えた。
(あの夜ーー、リンの抱擁によって開放されるまで私はずっと『嘘つきな子ども』のままだった……!
ああ!!
寂しいと声に出して叫びたくても、誰かに愛を請いたいと思いつつもそうできずにいた、不器用で人見知りな、そんな子どもを胸の中に置き去りにしたまま、自分自身でさえ気づくことができなかったというのに……リン……君という人は……!)
「ーーあんな私でも……、君は愛し始めていてくれたというのか……?リン」
アクセルの頬を、後から後から涙が伝った。
「あの頃の私はまさに『嘘つきな子ども』だった……。
愛に飢えながらも、それを認められず、虚勢をはって生きていた。
告白するよ、リン……あのウィリアムズ・カレッジの面会室で、君に初めて会った時、私は怒りとは別に、妙な苛つきを感じていたんだ。
今になってみればよくわかる。私は君の中に、自分が求めていたものを感じ取っていたんだな。
そして、私もまた、君に恋に落ちていたんだーー」
「閣下……」
リンの指先が、優しくアクセルの頬を撫でた。そのほっそりとした手を握りしめ、手のひらにキスをしながら、アクセルはむせび泣いた。
「泣かないで、閣下。愛しています。ずっと、ずっと一緒です」
どうにも我慢できなくなって、アクセルはリンを抱きしめた。アクセルの腕にすっぽりとくるまれながら、リンは言葉を続けた。
「『嘘つきな子ども』だった閣下も、私を憎むほどミリアムを守ろうとしていた閣下も、不器用に愛を告白してくれた閣下も、そして……、逃げ出した私を許し、諦めずに愛していてくれた閣下も、どんな閣下も、まるごと愛してる、これからもずっと」
「リン……リン……!!」
アクセルは自分の腕の中の、暖かくて柔らかい、と同時に強靭で全き太陽のように完璧なエネルギーを放つ存在を抱きしめた。あたかも、大洋の真ん中で板にすがる遭難民のように。母の胸にすがる赤子のように。
アクセルはあのステラを授かった夜に感じたのと同じ確信を感じた。
今この瞬間、自分は人生の、宇宙の真理を具現した存在、『愛する人』という存在を、この胸に抱いているのだ。探し求め、追い続けてそれでもなお、手に入るかどうかさえわからなかった、得難い存在を。
「私も同じことを思うよ、リン。
どんなことがあろうと、私は君の味方だ。
愛している。ずっと、一緒にいよう。
いや、今生だけでは足りない。未来永劫、共に生きよう。
何度、生まれ変わっても永遠に……」
あの日、ウィリアムズ・カレッジの冷たい三和土の上で、絶望に打ちひしがれたリンを抱きながら言い続けたのと同じ、ベルベットのようなバリトンでアクセルは愛を囁いた。暖かな腕にすっぽりと包まれながら、リンはそれを聞いた。繰り返し、繰り返しーー。
これからも、まだ、リンの人生には多くの困難と悲しみが降り掛かってくるだろう。差別は一朝一夕にはなくなることはなく、偏見をもった人々の心は頑なだ。
それでも、もう怖くない。真っ暗な海で、一人ぼっちの砂漠で、湿った冷たい風の吹く荒野で、リンを導くたった一つの星を見つけたからだ。
見上げれば、リンの上に灰色をしたアクセルの瞳から、涙という名の雨が降りそそぐ。リンを癒やす灰色、それはアクセルの色。
海に降る雨、それは、リンが手に入れたかったものの象徴なのだろう。
平等に厳しく、平等に優しい。いつでもそこにあって揺るがずにいてくれる、そんな存在。
(私は手に入れた、愛する人を、私だけの輝ける星を。
苦しみの全ては無駄じゃあなかった……。
ううん、人生には無駄な事なんて何一つない。
全てはここへ、閣下の胸の中へと導く一本の道……)
愛し愛される確信に震えながら、微笑むリンの頬に唇に額に、顔中に、アクセルのキスが降り注ぐ。
その灰色の瞳の中にある深い深い愛を感じながら、リンはそっと目を閉じた。
みなさま、改めましてごきげんよう☆彡
美斑寧子でございます。
さて、全145話に渡り、『海に降る雨』を応援していただいて、誠にありがとうございました。
私がこの物語を書こうと思ったのは、さる知り合いから聞いた、児童養護施設に関する情報がきっかけでした。
曰く、
『児童養護施設で育つ子どもにはろくな子どもがいないから、建設予定地だってことがバレたらすごい反対活動が起こるから、秘密で建設するのが普通』
『うちの近所にある児童擁護施設の子ども達は、学区内の小学校のPTAが反対活動をして絶対に受け入れしないことになったから、わざわざ少し離れた小学校に通うことになった』
これ、正真正銘、現代日本のお話です。
一昔前ではなく。外国でもなく。
その時感じたやるせなさや、怒り、哀しみから、リン・バクスターというキャラクターは生まれました。
私がこの物語の中で繰り返し登場させたリンを差別する人々は、私たちが生きる、この現代日本にも実在する人々の象徴です。
この物語を読んでいただいた皆様に、難しい事を押しつけるつもりも、強いるつもりも毛頭ございません。
しかし、どうか、どうかーー、心の片隅でいい、今この瞬間にも、この私たちが生きる現代日本に、リンと同様の差別と苦しみを受けている子ども達がいることを、知り留めていただけたら、と願って止みません。
そしていつか、その現場に居合わせた時、アクセルやミリアム、ドクター・ブルームやホルト大将たちの「側」にいて欲しい、リンを助けた人々と同じとまではいかなくとも、差別に迎合しない行動を選んでもらえたら、こんなに嬉しいことはありません。
それでは、また外伝&次回作でお会いできることを夢見て☆彡
長い間、どうもありがとうございました!!!