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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
144/152

144.結婚の許し

 婚約披露パーティから数日経ったその日ーー。

 リンとアクセルは、ステラを連れて、リンの生まれ故郷であり、大切な家族の住む孤児院へと足を運んだ。

 再三の要請にも(かか)わらず、結局、婚約披露パーティへの出席を固辞したシスター・マーガレットにどうしても結婚の挨拶をしたいと言うアクセルと、孤児院の弟妹達(きょうだいたち)にステラを会わせたいと願うリンの為の訪問である。

 30数人に及ぶ孤児院の子ども達全員に、ささやかなプレゼント(ノートだの、ボールペンだの)を用意して、アクセルの運転で海辺の小さな町に向かう。乳母(ナニー)を連れて行くようにというグッドマンの言葉をやんわりと断って、親子3人で水入らずのドライブだ。

 大きな大きなラグジュアリーセダンを手放して、頑丈で荷物がたくさん積めるツーリングワゴンに買い替えたアクセルは、ミリアムがプレゼントしてくれた最新のベビーシートにステラを乗せて、デリースのディスカストス邸の周りをドライブするのが最近のマイブームである。好奇心旺盛なステラは、車窓の景色がどんどん流れていくのがとにかく大好きで、しかもはしゃいではしゃいで、その挙句にコトリと寝てしまうのである。

 そんなわけで、父と娘二人で出かけるドライブは、仕事を早めに切り上げて帰宅し、ようやく一緒に住めるようになったリンと甘い時間を過ごすのが楽しみなアクセルにとっても、大好きなドライブを楽しめるステラにとっても、どちらにとってもwin-winな楽しみなのだった。

 そんなステラが、今日は全く寝る気配がない。というのも、いつにも増して目新しい風景が次から次へと立ち現れるからで、それは大きな岩の切り通しで車窓から垣間見える切り立った茶色い岩だったり、かと思えば、延々と続く起伏を覆う緑の茂みと下草の草原だったり、その遠くに時折見え隠れする、青い地平線だったりした。

 アクセルの運転する緑色のツーリングワゴンは快適に走った。

 リンとアクセルは車内で様々な話をした。低く流れる地方FMで繰り返し繰り返し流れるヒットソングが穏やかな空気と、親しみに満ちた空間を提供してくれる。


「それじゃ、シスター・マーガレットはアザリス人じゃないのかい?」


「ええ、随分前にデューランズから渡ってきたんだ、って聞いたことがあるの」


「全然わからなかった。デューランズ訛りなんてまったく無いからね」


「もともと、ご両親はアザリス人で、商売をするためにデューランズに渡ったのだけれども流行病であっという間に亡くなってしまったんですって。

 その後暫くあちらで暮らしていたいたけれど、どうにもデューランズ気質に馴染めなかった、って言ってたわ」


リンが少し可笑しそうに言った。

 そんなリンの横顔を、チラチラと見ながらアクセルはあまりの幸せにぼんやりとフロントガラスを眺めた。たった1年で自分の人生は劇的に変わってしまったと思う。嵐の海に漕ぎだしたことを、今では愚かな行動だったと重々承知しているが、それでもあの時リンを見つけ出した自分を、自分で褒めてやりたいと思う。それくらい、アクセルにとってリンのいない生活は、もはや、あり得ないほど味気なく苦しく寂しいものになりつつある。

 かつて、単なる眠りに帰る家だったデリース屋敷は、今や、愛する妻と娘の待つ、これ以上ない甘やかな場所に変わったのだ。変えてくれたのは、リンだ。リンがアクセルと共に人生を歩もう、と、決心してくれたことでアクセルの人生の全てはキラキラと輝きだした。

 アクセルは、今日、シスター・マーガレットに正式な結婚の許しを請うつもりである。すでに承諾の意はもらっているとは思う。しかし、それとは別に、リンの眼前ではっきりとリンの親代わりのあのシスターに祝福してもらいたいと思うのだ。無論、いくら固辞したとしても、結婚式にはどうしても出てほしいと懇願するつもりだ。

 とは言え、シスターも神職である以上は、そういったお祝い事を断る筋合いのものではないことはよくわかっているだろう。それでも、アクセルは心の何処かに、ほんの小さな刺が刺さっているのを無視することができない。

 だから今日は、ちょくせつシスターに結婚式の招待状を渡すと同時に、リンとの結婚の許しを得たいと考えているアクセルなのだった。


 そうこうしているうちに、車は順調に距離を稼いだ。

 その建物は、町外れの海岸近くの丘陵地に、ポツンと立っていた。

 遠くから眺めると、まるで荒れ狂う波濤の彼方にぽつんと浮かぶ船のようである。この場合の波濤は下草に覆われた、緑色の起伏ある丘陵地である。町を通りすぎて、となり町への国道が延々と続いているのは、海岸線から少し入った、丘陵地の谷間だった。


(こんな風に町外れに建っていては、なにかと不便だろうに……)


そんなことを考えながら、アクセルは孤児院建物前の、広い庭に車を乗り入れた。


「リン!」


3人が車から降りるか降りないかのタイミングで、シスターが飛び出してきて、涙ぐみながらハグしてくれた。


「しばらくぶりね、元気そうで良かったわ!」


アクセルとの結婚を決意し、マニティ島を出る決意をしてすぐ、リンはシスター・マーガレットに連絡を入れた。電話口で、沸々と湧き上がる怒りと安堵の興奮を抑えつつ、シスター・マーガレットは言った。


「それで?リン。ディスカストス侯爵閣下を受け入れる覚悟が出来たの?」


それを聞いたリンは、改めて


(シスター・マーガレットにはかなわない……)


という思いを新たにしたのだった。

 その後、マニティの病院を辞めて本土に戻ってすぐ、ステラを連れて一度里帰りしたリンを見るなり、シスター・マーガレットは固い抱擁と共に、『おかえりなさい』と言って泣いたものだ。無論、リンも泣いた。不思議なもので、泣くのが仕事のような赤ん坊であるステラは全くむずがらず泣きもせずに再会にむせび泣くリンとシスターをきょとんとした眼で見上げていたのだったが。


「さ、入って入って!お茶を用意してるんですよ」


ステラを抱き取り、嬉しそうに先導するシスターに促され、二人は小さな応接室に通された。そこにある全ての家具は、古びているけれども、シスターがこまめに繕い、年かさの少年たちが大切にメンテナンスしているおかげでとても居心地の良い空間を作り出している。

 あたりには、孤児院のハーブガーデンで採れたラベンダーを使ったサシェの香りがただよっていた。

 そんな応接室で、アクセルは座るやいなや


「シスター・マーガレット。今日はリンとの結婚をお許しいただくためにやって来ました」


と切り出した。


「私は愚かで尊大な男でした。かつてリンをひどく傷つけ、絶望を味あわせたこともありました。

 しかし今は、リンを愛していることに目覚め、人生の全てをリンと共に()りたいと望んでいます。

 どうか、私とリンの結婚を許してください」


その表情はいたく真剣で、微塵も照れのない真摯な表情はシスターだけではなくリンの心をも打った。

 そんなアクセルに答えるように、シスター・マーガレットもまた心底真面目な表情で言った。


「ディスカストス侯爵閣下、リンは何も持っていません。そして、私もこの子に、花嫁道具を何一つ持たせることができません。

 しかし、これだけはお約束できます。

 リンは誠実です。真摯で、慎み深く、敬虔で、神に忠実です。

 リンが愛する時、それは全てを与えることを意味するでしょう。この子はそういう子です。

 だからこそ、私は貴方様にお願いしたいと存じます。

 どうか、リンを信じてあげてください。そして、リンがリンらしくいられるように、あなたの愛を与えてあげてください。

 そうすれば、あなたは必ずや、幸せになれるでしょう。リンはあなたを幸せにしてくれるに違いありません。私が保証致します。

 いかがですか、閣下?リンを愛し、慈しみ、未来永劫信じることができますか?」


「もちろんです、(マザー)よ」


アクセルは、シスター・マーガレットを、孤児院に暮らす全ての子どもたちの母として、そう呼んだ。


「私の魂は、愛は、未来永劫リンのものです。

 いいや、それらはすでにリンに捧げました。そしてリンもまた、日々、私にそれを返してくれている気がします。

 私はもう十分幸せです。次は、私にリンを幸せにするチャンスをいただきたい。いいえ、リンだけではなく、可愛い私の娘、ステラ・エリザベスも……」


リンはその溢れる誠実な表情と声音に、涙が溢れて止まらなかった。


「承知いたしましたわ、ディスカストス公爵閣下。

 私からも礼を申します。リンを諦めないでいてやってくれて、ありがとうございました。そして、リンを許してくれて、そしてリンを受け入れ、愛し続けてくださって、ありがとう。本当に。感謝の気持ちでいっぱいです!」


「シスター!!」


感極まったリンは立ち上がると、シスターの隣に移動して、横からその小さくなってしまった体をギュッと抱きしめた。


「リン……!!」


シスターもまた、ステラを抱いているのと反対側の腕をリンに回し、二人は固く抱き合い、また、涙に濡れた笑顔で互いに見つめ合っては、頬を擦りつけあって感謝と愛情を確かめ合ったのだった。


 その後、眠くなったらしくぐずり始めたステラをあやして寝かしつけるためにリンが退室すると、アクセルはシスター・マーガレットに一通の封筒を差し出した。それは、この孤児院の子どもたちが大学に進学するための、奨学金を拠出するソーシャル・ファンド基金の証書だった。

 リンと知り合ったことをきっかけに始めた、ディスカストス・ホールディングスの社会的投資部門は今や大きく成長し、堅実な利益を上げている。

 そこで今回、リンと共同名義で投資信託商品を作り、それを元手とする奨学金基金を立ち上げたのだった。


「大変ありがたいことです。

 おかげで、今年大学に進学した子どもたちが、休学せずに済みそうです」


シスターは深々と頭を下げてアクセルに感謝した。

 というのも、孤児院出身の子どもたちが大学に進学する時、授業料の免除や政府からの奨学金を受けられるのだが、それだけでは生活費に不足を生じるのである。無論、普通に通っている間も懸命にアルバイトをしないと授業料以外の経費を捻出することができない。

 大抵の場合、不足金を工面するために、1年か2年、大学を休学し、普通にかよっている者の2倍から3倍の時間をかけて卒業するのだが、中にはそうした働きづめの生活に疲れ、勉学の心折れて、結局大学を退学してしまう者もいて、リンとシスターは常々残念に思っていたのである。

 そうした状況をなんとかできないか、と相談を受けたアクセルが思いついたのがこの基金だった。


と、シスターと談笑していたアクセルは、ふと、リンがなかなか戻ってこないことに気付いた。思わずそわそわと辺りを見回しているアクセルに、笑みを噛みころしながら、シスターは言った。


「リンならば、多分、裏庭ですわ。

 あの子はあそこから眺める景色が大好きなんですよ」


「あ、いや、別に私は……」


仕事に出掛けていれば平気なのだが、共に過ごしている時に、少しでもリンの姿が見えないだけで沸き上がる、漠とした不安を見透かされ、アクセルは恥ずかしそうに否定した。

 しかし、そこはさすがのシスター・マーガレットである。アクセルのささやかな虚栄を、やんわりと笑顔で無視して、言葉を続けた。


「ディスカストス侯爵閣下、これからもあの子の激しさに戸惑うこともあるかと思いますが、どうか、どうかどんな時も、あの子の愛を信じてやってください」


深々と頭を下げるシスターに、アクセルは慌てて言った。


「戸惑うもなにも、リンよりもずっと、私の方が精神的に彼女に頼り切っています。お恥ずかしいことですがーー」


「そんな貴方様であるからこそ、リンは共に生きていくことを決めたのでしょう……」


シスターはそこまで言うと、そっと白いハンカチを目頭にあてた。

 そしてその涙を誤魔化すかのように、


「さ、リンを呼んできてくださいな、閣下。じきに学校に行っている子ども達が帰宅します。皆、今日はステラちゃんが来ることをとても楽しみにしていましたから、急いで帰ってくるでしょう。

 そうしたら、みんなでアップルパイをいただきましょう」


と、アクセルを質素な応接間から追い出したのだった。

次回、最終回!!

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