143.養子縁組の内幕
「フン、十も年下の嫁さんを貰うからといって、嬉しそうにやに下がりやがって」
互いに見つめ合い、軽やかで滑るような足取りでダンスに興ずるリンとアクセルを眺めながら、ドクター・ブルームは一人ごちた。その辛辣な言葉とは正反対に、その顔は満足そうな笑みを浮かべている。
「確かに二人とも本当に嬉しそうですなぁ。
まぁ、無理もありますまい。なにせ、ここまで来るまでに、あの二人には幾多の紆余曲折がありましたからな」
ワイングラスを片手に同じテーブルで相槌を打っているのは、ホルト大将である。その顔にはかつて命を救ってくれた大恩人であるリンを守ることができたことに対する誇らしさ、達成感と、安堵が見えた。
と、そのはす向かいで同じく愛する2人を眺めて目を潤ませていたミリアムが、
「本当にビックリしたわ!リンの養子縁組のこと、私にまで秘密にしているなんて!ホルトおじさまも、グッドマンも酷いわ!」
と、冗談めかして恨み言を言った。
「ははは!すまなかったね、ミリアム。
色々忙しかったし、どこでどうマスコミに嗅ぎつけられるかわからんし、極々うちわの人間で動いていたんでな」
「でも、グッドマンは知ってたんでしょう?だったらどうして私にも教えてくれないんですか!?」
「まぁまぁ、ミリアム。ホルト大将閣下にもやむをえない事情がお有りだったんだろうから」
リチャードが宥めるように助け船を出す。
一方、グッドマンはと言えば、深々と最敬礼のお辞儀をしてから切り出した。
「申し訳ありません、お嬢様。
ただ……。
今回の養子縁組については、あくまで最後の手段、ということで、念のためお知らせするのは後回しにさせていただきました」
次いで、ホルト大将がグッドマンに助け船を出した。
「うむ。
実は、リンさんが私の養女になったことは、あんな風に大々的に周知するつもりはなかったのだよ」
「えっ?……どういうことですか?ホルトおじさま?」
ミリアムが心底解せないという体で首を傾げる。
「リンさんは差別に苦しみながらも、懸命に努力し続け、医師になった。
決して孤児であることを恥じたり嫌がっているわけじゃないのは、分かるだろう?」
「ええ」
ミリアムは大きく頷きながら言った。
実際、リンは自分の出自を隠したことなど一度もなかった。ウィリアムズ・カレッジで、愚かな貴族令嬢達に何を言われても、常に冷静で自然体だった。
それでいて、胸襟を開いて接する相手には、面倒見がよく、母性に満ち溢れて、信じられないくらいの無私の精神にあふれていた……、それがミリアムの大好きな自慢の親友、リン・バクスターである。
(あのリンが、自分が孤児であることを嫌って、ホルト男爵家へ養女に入ることを望むなど、考えられない!)
ミリアムは思う。
(私の知っているリンは、そんな下らない見栄をはる人じゃあない!……でも、だったら何故……?)
ミリアムがそんな思いに至ったところで、ホルト大将が話し出した。
「本当だったら、ありのまま、そのままの出自でディスカストス侯爵家に嫁ぎたかったに違いない。
ところがそうなると、このアザリスに数多いる差別主義者達との間に無用の軋轢を生む。ひいては、思いも寄らない言いがかりや差別で、この結婚に横槍が入る可能性がある。リンさんはそう考えたんだな」
ホルト大将は、やるせない表情で手元のワイングラスに目を落とすと、続けた。
「私はかつて彼女に命を救ってもらった。だから、その恩に報いるためにどんな頼み事にも応じるつもりでいた。あの日、ギースの病院でそう、約束したからな。
しかし、何年も経ってから、久しぶりに面談を請われて会ってみれば、『自分を養女にして欲しい』ときた!正直、驚いたよ!予想もしていなかったからなあ!
リンさんは言っていたよ。
『閣下と共に生きていく為には、出来ることはなんでもするつもりだ』とーー。
『だから、ホルト様のお力を、ほんの少しだけ貸してください』と」
ホルト大将はそう言って、最後は海の男らしい、大らかな笑顔で締めくくったが、酒のせいかそれとも急ごしらえの娘の生い立ちを思ってか、少し潤んだ瞳で、ワインをゴクゴクと飲んだ。
そこからはグッドマンが会話を引き取り、語った。
「つまり、リン様は、ご自分の矜持よりも、旦那様との結婚を優先されたのでございます。
それまで大切にしてきたご自分の信念を二の次三の次にして、養子縁組によって貴族の身分を得て、この結婚が貴族と貴族の結婚であるという"体裁"を整えた。
万に一つも結婚話が覆されることのないように、万全の手を打とうと、ホルト大将閣下に養子縁組のお願いを申し出たのでございます」
そう言いながら、グッドマンは、ホルト大将のワイングラスに、別荘所蔵のシャトー・ディスカストスの中でも、選りすぐりのヴィンテージを、惜しみなくどぼどぼと注いだ。
「本日は本当にありがとうございました、ホルト様。
ディスカストス侯爵家の未来の奥様を救っていただいたことに、主人共々、感謝の言葉もございません。
今後共、奥様のご実家筋として、末永くよろしくお付き合いください」
「なんの、なんの!
私はただ、可愛い娘を、差別主義者の言葉の暴力から守っただけだよ、グッドマン!それに、アクセル・ギルバートも私にとっては息子みたいなもんだ。
初めて二人に会った時はアクセル・ギルバートがあんまりにも頑なな態度だったものだから、思いが通じるかどうか心配したが、結局はこうして二人が結婚することになった!!しかも、義理とはいえ、自分の娘としてリンさんを嫁に出せるとは!こんなに嬉しい事は無い!!
さ、さ、貴殿も飲みたまえ!さ!」
そう言ってホルト大将が、老いて尚、矍鑠とした姿勢を崩さない老執事にワイングラスを押しつけようとしているところに、舞踏会皮切りのダンスを踊る、という大役を果たした今夜の主役2名ーーリンとアクセルーーが戻ってきた。
「お疲れさま、リン!!」
ミリアムがリンに飛びつく。そのふっくらとした身体を抱き留めながら、リンが胸を抑えながら、破顔して応えた。
「ミリアム!どうだった?私のダンス?
なんだかもう、ふわふわした心地で、雲を踏んでいるような感じで、ただただ閣下のリードに合わせているうちに、あっという間に終わってしまったような気がするの。合格点はもらえそう?」
リンは少し息を切らしながら、言った。ダンスのせいで上気したその頬は、バラ色だ。
「もちろんよ、リン!もう、どこの舞踏会に出ても恥ずかしくない出来だったわ!
ああ、もう、リン、あなたったら本当に素晴らしかったわ!」
ミリアムは、感動の涙で瞳をウルウルさせながら、大好きな親友で、やがて義理の姉になる大切な女性に抱きついて言った。
そんな二人の仲睦まじい様子をこれ以上ない幸せそうな表情で眺めながら、
「私の方こそ、まるで天上の雲の上でダンスをしているような気分だったよ」
と、アクセルが笑う。
「本当に?閣下?」
そう言って振り向いたリンだったが、蕩けるような笑顔で頷かれ、思わず顔を赤らめてしまった。
(閣下の顔って……やっぱり心臓に悪い……。
いつかこんな端整な容姿に慣れる日がくるのかな……?)
一方、そんな初なリンの挙動に苦笑をかみ殺しながら、グッドマンが、脇にいた乳母から、大切な大切な侯爵令嬢を抱き取って、主人に負けない甘甘の笑みを浮かべた。
「おおう、ステラ様、ご機嫌でございますね。
お父様とお母様の晴れ姿は、しっかりご覧になりましたか?美しゅうございましたでしょう?」
「うーー、うぁう!あーーう!」
好奇心旺盛なステラは、いつもとまったく違う周囲の様子に、至極ご機嫌である。彼女なりに、大いに満足気な様子で、手足を動かしながら声を発した。
それを見ていたホルト大将はというと、すかさずワイングラスを置くと、グッドマンの方へと腕を伸ばして言った。
「おお、ステラ!来たのか来たのか。さ、お祖父ちゃんが抱いてあげよう?ほら、こっちにおいで?」
驚いたのは、それを聞いた人々である。
(……えっ?)
(お祖父ちゃんって言ったぞ、お祖父ちゃんって……)
(あ、あの灰色混じりの髪の毛……!)
(まさか!)
人々の間に、大きなざわめきが走る。
それに拍車をかけるように、ドクター・ブルームがわざと言いふらすように、大きな声で言った。
「婚約パーティだ、ってのに、もう既に子どもまでいるとはな!まったく、順番が違うぞ!ディスカストス!!」
呆れたような口調とイヤミったらしい内容に反して、その顔にはこの上ない笑みが浮かんでいる。
そんなドクター・ブルームの眼前には、シャトー・ディスカストスの空瓶が3本。
(このペースですと、ホルト様とブルーム様お2人だけで、かなりのワインを召し上がることになりそうですね。
後でソムリエにワインセラーを全部開けても構わないという許可を与えておかないと)
有能な執事らしく、グッドマンはそんなことを考えている。
「どうやら婚約披露パーティは大成功と言えそうね」
ミリアムがリチャードに呟いた。
「もちろんだよ、奥さん。君の手にかかればどんなパーティも大成功間違い無しだよ」
ミリアムの頬にキスをしながら、リチャードが鷹揚に頷いた。
そんなディスカストス侯爵家関係者達とは無関係に、有能な召使い達のおかげで、パーティは着々と進行した。
リンとアクセルが退けるのを待ってましたとばかりに散らばった、色とりどりのドレスに身を包んだ令嬢達が、華やかなダンスを披露して、舞踏会は益々盛り上がった。
一方、ファーストダンスが終わった途端、休む間もなく次々と挨拶に訪れ始めた人々へと応対したリンだったが、ここでも頭に叩き込んだ貴族年鑑が絶大な威力を発揮した。
人は誰でも、自分の名前をしっかりと覚えていて貰っただけでも嬉しいものだ。ましてや、趣味や好きな事についてのちょっとした話題をふってもらったならば、話も弾むし心理的な距離もグッと縮まるものであろう。
グッドマン(と少しだけジョン・マシューズ)による、アザリス貴族社会における知る人ぞ知るマメ情報レクチャーで得られた知識を縦横無尽に駆使して、にこやかに、そして愛想良く根気よく対応したことによって、リンはたちまち多くの人々の中に好印象を残すことに成功した。
そればかりでなく、頻繁に見つめ合うリンとアクセルの幸せそうな表情と雰囲気の余波は、まるで無限に広がる幸せの霧のように人々に伝染し、口をきいた人々を皆、楽しく幸せな気分にしたのだった。
その中の何人かはギャヴィストン伯爵夫人に負けず劣らずの差別主義者であり、また、リンの尻尾を掴んでやろう、という意地悪な目的でもって挨拶に訪れた者達だったが、結局のところ、リンを守ろうと鉄壁の守りを敷いたアクセルによって会話を打ち切られ、撃退されてしまったのだった。
最終回まで、あと2話!