140.真打ち、登場
突然現れたその人物に、野次馬の間に低いざわめきが広がった。
広い肩幅、分厚い胸。とても60才を過ぎているようには、見えないその鍛え上げられた身体に、アザリス海軍の白礼服を身につけている。
その肩から垂れた黄金の肩章と、そこから金色の飾緒は5本。胸元の飾りボタンへと伸びたその組紐は、光沢を出すように束ねられて留められ、艶々と光りながら腹部に垂れている。
その偉丈夫は、人々の注視の中をまっすぐに突っ切り、リンの隣に立つと、
「そこまで!ご婦人」
と、低いが良く通る声でその場を一喝した。
辺りに沈黙が降りる。
さすがのギャヴィストン伯爵夫人もその迫力に負けてしまったらしい。ギョロリと目を見開き、黙り込んだ。
「なにを考えているのか知らんが、これ以上この子を侮辱はするのは止めていただきたい!」
男性が良く通る声で、更に言った次の瞬間、金縛りから解けたように、ミリアムが叫んだ。
「ホルトおじさま!」
そう。衆目の中で、リンを庇い、無礼な老婦人を糾弾したのは、アクセルとミリアムにとって恩人でありまた、頼れる存在である、ホルト大将だったのである。
呼びかけたミリアムに、ウィンクで相槌を返すと、ホルト大将は流れるような動作で、リンの片手を取り、自分の肘に導く。
リンは微笑みを浮かべてその手を逞しい左腕に乗せ、軽い動作で弾みをつけると、ミッドナイトブルーのドレスを軽やかにさばいて一歩前に出た。そして、完璧な挙措でお辞儀をした。それはまるで、アザリス王宮で王族を前にしても恥ずかしくないような、どんなマナー教師が見てもケチをつけようのない、滑らかで優雅な動きであり、周囲の人々の目を、自然釘付けにした。
そして、自分を憎々しげに睨み付けているレディ・ギャヴィストンに向かって、辺りの空気を払うような暖かく美しい笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります、ギャヴィストン伯爵夫人。リン・バクスター・ホルトと申します」
「えっ?!」
アクセルは耳を疑った。今リンは、リン・バクスター・ホルトと言わなかったか?
「そして、こちらは私の父、ギュンター・トーマス・ホルト海軍大将です」
輝くような笑顔でリンは続けた。
「私の到着が遅れたせいで、お前にイヤな思いをさせてしまったようだね、リン?それにアクセル・ギルバートにも」
ホルト大将が、鷹揚に、しかし鋭い目つきで言葉を継いだ。
「ギャヴィストン伯爵夫人、といったかな?
なにを根拠にしているのか知らないが、私の娘であるリンと、息子のような存在のディスカストス侯爵、アクセル・ギルバートの晴れの婚約披露パーティに水を差すのはやめていただきたい」
言い方も声音も紳士的だが、そこには明らかな威圧と呆れた様子がうかがえた。
「なっ……なっ……!」
レディ・ギャヴィストンは口をぱくぱくさせながら、何か言おうとするのだが、声にならないようだ。
その様子を見て、ホルト大将は更に言った。
「先程からイヤでも耳に入ってきたが、私の娘に随分と失礼なことを言ってくれていたようだ。
しかし、本家筋の現当主であるディスカストス侯爵が決めたこの婚約に、とうにギャヴィストン家に嫁いでいる人間が口を出すのは、筋違いというものではないかな?」
「…ンぐ……」
ギャヴィストン伯爵夫人の喉の奥から、カエルを踏みつぶしたような音が漏れた。顔もまた、踏みつぶされたカエルのような形相である。顔色は蒼白を通り越して、緑に近い。
そんな伯爵夫人を前に、ホルト大将は最後通牒とばかりに、続けた。
「しかも、祝う気も無いのにこうして婚約披露パーティに出てくるなど、最初から私の娘を侮辱するのが目的だったとしか思えない。
だとすると、私の方もそれ相応の措置を考えねばなるまい」
「……ヒィッ……!」
ギャヴィストン伯爵夫人が後ずさる。
つい一週間前に招待状を受け取ってすぐ、噂好きな社交界の知り合いから、アクセル・ギルバートが婚約したのが、孤児らしいと聞いた時、
『夫人の自慢のディスカストス侯爵家も、下賤の血を入れることになるとは……お終いですわね……』
と、さる男爵夫人に当てこすられた。その男爵夫人は、長年の間、血筋と家柄が低いのを理由に、散々ギャヴィストン伯爵夫人に苛められてきたために、ここぞとばかりに辛辣な言葉で当てこすりを放ったわけなのだった。
そうして格下だと思いこんでいた相手に痛い所を突かれて、腑が煮えくり返る思いをしたギャヴィストン伯爵夫人は、
『この結婚をなんとしても阻止しなければ』
と、見当違いの責任感に燃えて、ここまでやってきたのである。
がしかし、想像もしなかった目の前の事態に、ただただ打つ手も言葉もなく、喘ぐしかない状況に陥ったのだった。
最終回まで、あと5話!