139.「氷の貴公子」降臨
"彼を知り己を知れば百戦殆うからず"。
それは、結婚して"から"ではなく、する"前"から社交界における人物情報を知っておくことを最優先のミッションとして提示された時、『何故か?』と問うたリンに向かってグッドマンが言った言葉である。なんでも、東方の著名な兵法家の言葉だということで、要するにこれからリンが戦わなければならない敵である、アザリスの貴族社会とそこに巣食う差別主義者たちのことをしっかり知っておくことこそが、唯一の対抗手段だ、ということなのだった。
『知は力なり、とも申します』
そう言って、グッドマンは微に入り細を穿って、アザリス貴族階級の人々にまつわる様々な知識を与えてくれた。
そして今、確かにリンを助け、突然の攻撃にも慌てないでいられるのは、まさにその知識のおかげなのだった。
(はぁー……グッドマンさん、すごい)
リンは頼りになる老家令に心の底から驚嘆した。
一方、アクセルとて黙ってはいなかった。
偏屈で狭量な大伯母から大切な婚約者を守る為に、大きなストライドであっという間に距離を詰めると、リンとギャヴィストン伯爵夫人の間にその大きな体を割り込ませ、挑むような冷たい微笑みを浮かべた。口角は上がっているが瞳はまったく笑っていない、そんな氷の微笑みである。
「これはこれは大伯母様、ごきげんよう」
しかし、敵も然る者。そんなアクセルの敵意になんら怯む所はなかった。
「これは一体全体、なんの茶番だい?アクセル・ギルバート?」
底意地の悪さを窺わせる、しわがれ声に怒りと苛立ちを込めて、ギャヴィストン伯爵夫人は言った。
「ディスカストス侯爵家は、このアザリスで、最も古い血脈を誇る名門中の名門だってことを、忘れてるんじゃ無かろうね?!
その侯爵家の跡取りであるお前が、よりによって、こんな……こんな……」
そこまで言って伯爵夫人は手に持っていた杖でリンのことを指し示した。マナーに外れた、言語道断な振る舞いである。もちろん、強い侮蔑の意を込めてのことだった。リンは、先程来襲した3人の令嬢達と対峙した時とは比べものにならないほどの、強烈な敵意を感じて、一瞬その身を硬くした。
そんなリンの反応にまったく頓着せずに、ギャヴィストン伯爵夫人は続ける。
「こんな、どこの馬の骨ともわからない、孤児院育ちの孤児を娶ろうなんざ!正気の沙汰とは思えないね!!」
「大伯母様、それ以上彼女を侮辱するのであれば、私もそれ相応の対応をせねばなりません」
アクセルはごく淡々とした口調で応じた。しかし、その顔が見える場所にいた野次馬の面々は皆、背筋に冷たいものが走るのを、堪えることができなかった。それくらい、アクセルの顔つきは剣呑で、その眼差しはいまだかつて見せたことが無いほど、冷たく、厳しさに満ちていたからである。
(あんなディスカストス侯爵、見たことがない……)
(いや、昔一度だけ、プレップ・スクールの寮で、イジメに興じていた上級生を腕っ節と理路整然とした抗議でたたきのめした時、やはりあんな顔をしてたよ……)
(ビジネスの場ではいつだって冷静沈着なディスカストス侯爵が……)
(見かけの通りの氷のような静けさでもって交渉を進めるあのディスカストス侯爵が……)
(『氷の貴公子』の二つ名には、こっち意味も込められていたのか?)
(怒りのオーラが、まるでドライアイスから噴き上げる白い冷気のようだ……)
(こ、怖い!でもでも……あああ、なんてカッコイイの!?)
(嗚呼~!益々ファンになっちゃう!!)
外野の人々は各々、好き勝手にアクセルのその様子に対して、感じ入っていた(ちなみに、その中の何人かが、アクセルの新たなファンになっている)。
そんなアクセルの剣幕に、さすがのギャヴィストン伯爵夫人も言葉を無くしたが、すぐに矛先をリンに変え、金切り声をあげた。
「お前は知らないんだ!こういう手合いを一度でも家に入れたらどういうことになることか!
孤児院仲間の得体の知れない破落戸どもや、どこかから湧いてくる胡散臭い親戚が、ダニのようにたかってくるに決まってるよ!」
ヒステリックな口調で、声高に言い募る夫人の顔は、これ以上ないくらい醜悪だった。
「ーー大伯母様」
アクセルは、湧き上がる怒りを抑制する為に、小さい声でなだめようとしたが、あいにくそれは裏目に出た。
目の前のディスカストス侯爵が自分の話に耳を貸す気がないことを、嫌われ者特有の敏感さで察知すると、レディ・ギャヴィストンは、再び杖でリンを指し示しながら、叫んだ。
「こんな育ちの悪い女は、身持ちも悪いに決まってる!アクセル・ギルバートや。私はお前が、引いてはディスカストス侯爵家が郭公のような道化者にならないようにと、心配してやってるんだよ!!」
これにはさすがのアクセルも頭に血が上った。いくらなんでも酷すぎる、リンのことを平気で浮気をするような、不誠実な女と決めつけていることに猛烈に腹が立った。
「お止め下さい、大伯母様!これ以上私の婚約者を侮辱しないでいただきたい!」
アクセルが一歩前に出た。と、そこにようやく令嬢たちをガードマンたちに引き渡したグッドマンとジョン・マシューズ達が戻ってきた。即座にグッドマンとアイコンタクトしたアクセルは、ギャヴィストン伯爵夫人をもまた、隔離用の客室へ連れて行くよう指示を出そうとした。
その時である。
リンとアクセル、そして、ギャヴィストン伯爵夫人のいる、人垣に囲まれた円形の空間に、新たな役者が登場した!
最終回まで、あと6話!