135.リンの選択
(眩しいーー!!)
リムジンから降り立ったリンがまず思ったのはそのことだった。
ミリアムと綿密な打合せを重ねたおかげで、招待客達との距離感も、そして、玄関ホールの最奥部で佇むアクセルとの距離感も、想定した通りだったおかげで、まったくもって冷静な状態で、ミリアムに言われたとおりの見栄を切ることができた。
(何事も最初が肝心よ!さ、笑ってみて、リン!
ーーもう、ダメダメ!そんな引きつった笑顔じゃ、誰一人として魅了はできやしないわよ!
ほら、想像して。あなたは王女様。あなたは女王様。みんなあなたから視線を寄越されるのを心待ちにしているの。みんなあなたを尊崇している)のよ!自信を持って!ほら、もう一回!)
「フフ……」
この1週間、最後の仕上げとばかりにミリアムがキィキィと声を荒げて教え込もうとした様子を思い出し、リンは笑いを堪えた。そしてそんな風にリラックスしている自分に気付いて、不思議な気持ちになった。
(こんなに、なにもかも初めてのことだらけだし、周りの人達も初めて会う人ばかりなのに。私、全然緊張してない。反対にーー楽しみで仕方がないなんてーー)
そう、リンの心は凪いでいる。これ以上ないほどに満たされ、落ち着いている。
それは、あの日、決意した全てが間違いなく正しい道だったのだ、と確信できたからである。
あの時、アクセルと再会し、グッドマンとの対話によって自らの愚かさに気付かされ自らの真の気持ちに真正面から向き合った時、気付いた沢山の事。自分がなにから逃げたかったのか、何を怖がっていたのか。なにより、アクセルから、過去の全てから逃げ出したことでなにか解決したことがあったのか?という自らへの問いに、心の奥底で踞り、未来を見つめることさえ出来ずにいた、リンの最もリンらしい『本当のリン』とも呼べる存在は叫んだのだ。『否!!!』と。
(逃げて、逃げて、逃げて。何もかもから逃げて。目を瞑って、毎日の忙しさで誤魔化して。ステラの存在にかこつけて自分の人生を考えること、過去を見つめることを拒んでいた、弱い自分)
あの日、マニティ島公立病院の一室で、リンはその自分を、大嫌いな自分から逃げずに向き合い、自分の愚かさと醜さと、アクセルをひどく傷つけてしまったという事実を受け止めた。
そして、そこから全ては始まった。
リンは自分には選択肢がないと思いこんでいた。それはリンの出自から考えれば仕方のないことだったのかもしれない。リンの未来、リンの行く手には常に暗雲が立ちこめていたし、選択肢は確かに少なかった。女優になりたいとも、歌手になりたいとも、ましてや単なるお嫁さんになりたいとも思ったことがなかったのは、それらが確実に稼げる職業でも、なりたいからと努力しただけではなれない職業だということが分かっていたからだ。
リンが医師という職業を人生の目標に定めたのは、孤児達社会的弱者を医療という技術で守りたい、という大志からであることは、紛れもない事実である。しかし、同時に、医師という職業が一生食べていける、そして、孤児であるという差別から解き放たれた専門職であることも大きな理由だった。
リンにはそうした実際的な選択肢しかなかったのだ。いや、そう思いこんでいた。
そして、その侘びしい考え方はすっかりリンの習い性になってしまっていたのだった。
二つのことは選べない。一つを選んだら、他を諦めなければならない。自分にはそんな恵まれた人生は与えられていない。精一杯、努力して、努力して、人の何倍も努力して、そしてやっとたった一つの道が与えられる。そういう人生。リンにとってはそれが当たり前だったのだから。
だから、あの日、アクセルを自分の醜い心から守りたいと望んだ時、逃げるという選択をしたその時に、リンはその他の全ての可能性を擲ってしまったのだった。
同時にアクセルはどう思うか、アクセルにとってそれは幸せなのか?という視点もまた、擲たれてしまった。何故なら、リンにとって選択とはそういうものだったからだった。
しかしーー。
あの日、自らの選択のあまりの極端さに気付かされた時、自立した人間として、今こそ選択肢がたくさんあるのだ、と。だったらいったい自分は何を望むのか、と考え直してみた時ーー。
義務でもなく、押しつけでもなく、仕方がない、という諦めと共に与えられたものを諾々と受け入れるのではなく、いったい自分は何が欲しいのか?生まれて初めてその問いに向き合った時ーー。リンが選ぶことができた未来は、1つではなかったのだ。そこにはいくつもの選択肢があった。目の前には、いくつもの枝分かれした未来があり、そしてその未来の可能性の中から今は一つを選んだとしても他の選択肢が消えてしまうわけではないことを知った。
なにより、リンは気付いたのだ。自分が手を伸ばし、選択し、そして努力することによってしか、逃げようとした試練を乗り越えることはできない、という真実に。
(私は閣下の全てから逃げ出した。自分の世界を失うのが、自分の価値観が変わってしまうのが怖かった。なによりそれまで知らなかった自分になってしまうのが怖かった。
でも違う。何もかもが変わってしまっても、それが愛ゆえならば、決して不幸じゃない。怖い事じゃない。
選択肢が多すぎることは不安を呼ぶけれども、それでも選択肢が無いことよりは良い。私はそちらを選ぶ)
そしてリンは選んだ。ディスカストス侯爵と共に歩む人生を。愛する人を幸せにする為に、常に寄り添い、愛し、愛され生きる道を。
(それは茨の道だろう……)
眩い光の中、辺りを見回す。ギラギラと憎しみと羨望を込めた眼差しで自分を睨め付けているいくつもの視線と出会う。
自分が愛する人への無償の愛を貫こうとする、ただそれだけの事が、これだけの数の憎しみを、妬みを巻き起こすという事実にリンは震えた。
(それでも、それでも私はこの選択を曲げないーー何故ならーー)
凍るような侮蔑と火傷しそうな嫉妬をぶつけられながらも、リンは頭を上げてアクセルを見つめた。
リンにははっきりとわかった。アクセルは微笑んでいる。熱く熱く見つめてくれている。なによりリンを心待ちにしてくれているのがわかる。
(もう何も怖くない。この選択には『愛』しかないのだから)
リンは微笑んだ。それはミリアムから教え込まれた、作り物めいたロイヤル・スマイルではなく、正真正銘、心の底からの微笑みだった。
物見高く、底意地の悪い野次馬根性でもってこの晩餐会に参加することを決めていた人々の口から、思わず感嘆の溜め息が漏れた。
その瞬間、その場にいた大部分の人々をリンは確かに味方につけることに成功したのだった。
リンは一歩、又一歩とゆっくりした歩調でアクセルへ近づいた。そんなヒールの高い靴で歩くことも、ましてや、これだけの衆目を集めることも初めてだというのに、まったく不安を感じていない。
何故なら、視線の先にいる愛する人だけを見つめて進めばよいと分かっていたからである。いまだかつて、これほど自信と愛情で満ち足りた気持ちになれたことがあっただろうか?リンは知らずこぼれる眩いばかりの愛と幸せに満ちた微笑みを湛えながら、一歩、また一歩と玄関ホールを進んだ。