134.夏の終わりの青薔薇
一方、リンがこの日身に纏っている紺青のドレスは、肩口が広く横に開いているデザインで、出産を経た女性故のまろやかな肩の線を存分に引き立て、その豊かな胸と、シルクのような光沢を放つデコルテの美しさを、余す所無く強調する為に選ばれたものだ。
更には、肉感的で美しい首から肩、そしてデコルテまでの領域を邪魔しないように、と、極細の金鎖にハート形にカットした小粒のピンクダイヤモンドが一粒だけついたネックレスを見つけてきたのは、マダム・リグロンだった。
豊かなバストからは、驚くほど細いウェストと、ボリュームのある女性らしいヒップが続いているのだが、この、女王蜂のようにくびれたウェストと豊満なヒップの美しさと官能性をもまた十二分に強調されるようにとマダム・リグロンが選んだのは、かつて『バッスルスタイル』と呼ばれていた、後ろ身ごろにたっぷりとしたドレーンをあしらったデザインで、これもやはり、この夜会をきっかけにアザリス社交界で一大リバイバルブームを起こすことになった。
光沢のあるシルクタフタのたっぷりとしていながら軽い生地の色は、紺青一歩手前の、こっくりとした青だった。群青と藍の丁度境目、鮮やかでいて、同時に気高さを感じさせる、そんな青にこだわったのはミリアムだった。そしてそれは、いつぞやか、グッドマンがミリアムに語った一言から得たインスピレーションに基づいていた。
ミリアムとアクセルのことを誰よりも良く知り、そして、誰よりも大切にしてくれているグッドマンは、かつてミリアムにこう語ったことがあった。
『旦那様は、ご自分よりもお嬢様を大切に想ってくれる花嫁を望まれておられる。しかし、それは"青い薔薇"。つまり、この世の何処にも存在しない、儚い夢でございましょうなぁ……』
それを聞いてミリアムは複雑な思いを抱きつつも、深く賛同せざるを得なかった。というのも、両親の死をきっかけにアザリスに戻った時以来、周囲の女性達の標的となって、アクセル目当ての"偽りの友情"とそれにもれなくついてくる"裏切り"に晒されて、心底傷つき疲れ果てていたからである。
ミリアムにとってアクセルは自慢の兄だ。それは疑念をはさむ余地の無い正真正銘の真実であろう。異議を申し立てる気は毛頭無い。
ディスカストス侯爵家の跡継ぎとしても、実業家としても完璧な兄。中身が優秀なだけではない。外見まで申し分ない、いや、突出していると言って良いほど見目麗しい容姿をしていると思う。多少貴族らしい傲然としたところがあるにしろ、その反面、面倒見は良いし責任感も強い。なにより兄は努力家だ。ミリアムにはよく分かっている。
かつて、家族との時間と自らの知的興味を優先して世界中を旅して回る人生を選択した先代のディスカストス侯爵(つまりはミリアム達の父親)が、そこそこの規模に縮小してしまったディスカストス・ホールディングスの取り扱い高を、色々な部門で倍増させたのはアクセルなのだ!小さい頃はよく分からなかったが、ウィリアムズ・カレッジに入り、教養課程必修程度の経済学の初歩を学んだだけでも、どれほどすごいことなのか分かってしまうくらい、スゴイことなのだと、ミリアムとて良く分かっている。
(まぁ、時々、すごーーく!鬱陶しかったけどね……)
深い愛情故の過保護に、多少苛立った経験はあるものの、心の底から尊敬しているし、家族としての信頼も愛情も疑ったことがない。だからこそ、周囲の男女問わず、ミリアム・ディスカストス個人としてというよりは、『アクセルの妹』と扱われることが多いことに、内心忸怩たるものを抱えながらも、十分幸せだと思って生きてきた。
しかし、やがて、アクセルが結婚適齢期を迎えた頃から事態はみるみるうちに悪いほうへと雪崩を打って悪化していった。近年まれに見る"優良物件"だと認識されているアクセルに近づこうと画策する女性達の図々しさと、目的の為に手段を選ばないあざとさは止まることを知らず、そんな女性達からミリアムを守ろうとしたグッドマン共々、沢山の酷い目に遭ったのだった。
『青い薔薇』。この世に存在しないものの喩え。アクセルに幸せになって欲しい。誰か良い伴侶と出会い、愛し愛されて家族を作り、幸せな家庭を築いて生きていって欲しい。そう望むミリアムとグッドマンの想いと裏腹に、それは正に『青い薔薇』探しの相を長らく呈していたのだった。
ところが、意外なところからその『青い薔薇』は発見された。ミリアムは自分がウィリアムズ・カレッジへの入学を志し、二回の不合格を経てもその志に一点の曇りもなかったことや、そもそも、母の母校であるというだけで、アクセルの激しい反対を二年かけて説得した、あの頃の自分の裡に燃えさかっていた情熱について思い致す時、その後の人生の鮮やかな変転について驚きと感動の念を抱かずにはいられなかった。
(あの時、ウィリアムズ・カレッジへの入学と勉学の継続を決して諦めまいと誓ったあの瞬間に、私は自分だけじゃなく、お兄様の運命をも巻き込んで、その大きな舵を切ったのだーー)
ミリアムは感嘆と共に振り返った。
(家柄や爵位、結婚相手に依存することなく、自分の人生は自らの足で、自らの手で切り拓いていくのだ、という私の決意が、私の人生を、ひいてはお兄様の、ディスカストス侯爵家の全てをリンという『青い薔薇』、幸せをもたらすという手には入り得ないものを手に入れる運命へと導いてくれたーー)
だから、ミリアムはリンのドレスにこの深いブルーを選んだ。
つまりは、この青いドレスはミリアムとグッドマン、もちろんリチャードも含めて、アクセルの想いを知る全ての人々にとって、大きな暗喩であった。
ミリアムは目の前で堂々と振る舞うこの自分たち全ての運命を変えてくれた、小さく華奢なリンを眩しく眺めた。
(リンーー、私たちの『青い薔薇』。とうとう見つけた、この世の何処にも存在しないと謂われた『青い薔薇』)
一度は逃げ出したにも拘わらず、自分の意志で再び舞い戻り、『ディスカストス侯爵と結婚する』という辛く困難な選択をしてくれた、大切な親友を見つめながら、ミリアムは誇らしさと喜びのあまり、涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。




