131.ギースの青い夜
その日、ギースの宵闇は美しい夕焼けと共に訪れ、あっという間に当たりを藍色の夜に染めた。中天に丸々と太った満月が浮かび当たりを照らす。青い闇の中に、ディスカストス侯爵家別荘自慢の薔薇園の薔薇たちがぼんやりと浮かび上がり、その幻想的な眺めは、まさにこの夜の夜会に華を添えていた。
辺りがすっかり闇に沈むと、海から吹き上げていた風はすっかり止んで、岬の中央から突端を覆う森と灌木の茂みからは、こっくりとした緑の薫り溢れる湿った風がそよそよと薔薇園を渡りバルコニー越しに邸宅の中へと吹き込んでいった。
しかし、大勢の人々が集まって、熱気のこもった屋敷内ではてんで焼け石に水の有様で、夏の終わりだというのにまるで熱帯夜のようなむんむんした空気が辺りに充ち満ちているのだった。
そんな物見高い人々(ごく稀に心からアクセルの幸せを祝いたいと思っている数少ない学生時代からの友人を含む)が談笑する、晩餐会の前室とも呼べるサロンだの、軽いカクテルを供するバーカウンターだの、一夜の享楽的な恋の鞘当てを目当てにやってきた軽薄な男女がヒソヒソ笑いを漏らしている暗い廊下だのを歩き回りながら、パーティの統括を仰せつかった白髪の老獪な執事は、鋭い視線でありとあらゆる物事に目を配った。
パーティが始まると早々に入場したのはディスカストス侯爵家の縁戚達をはじめとするアクセルの結婚について何らかの利害を持つ人々である。ちなみに、リンの情報は一切明かされておらず、ディスカストス侯爵家の傍流として自分たちが恩恵を被ることができそうな『御曹司の分け前』が少しでも減ることを心の底から危惧している、そんな俗物的な人物がそこかしこに混ざっている。
そして、そんな鵜の目鷹の目のディスカストス侯爵家の縁戚達と時を同じくして入場したのは、上流階級に属するミリアムとリンのウィリアムズ・カレッジの同窓生、そして、先祖代々の交流のあるアザリス貴族階級の面々だった。結局の所、暇なのであろう。グッドマンはひたすらおしゃべりに興じることにしか興味を持たない、いい年をして働く気のないそんな男女の群を無表情に眺めた。
ところでその頃アクセルは何処にいたかと言えば、そんな物見高い人々が狷介な空気を醸す1階フロアから遠く離れ、3階にある自室からじっと薔薇園の向こうにある門へと続く、私道を見つめていた。
招待客達の大部分が隠そうともしない、物見高い好奇心に溢れた軽薄な気持ちとは比べものにならないほどに、強く、切迫した思いで、アクセルはリンの来訪を待ちわびている。というのも、ミリアムの戦略によって、リンはここ、ディスカストス侯爵家別荘に滞在せずに、ギース市内のいずれかのホテルから今夜のパーティに来場する、という手はずになっているからだった。
『だって、普通、結婚前の男女は同じ屋根の下には暮らさないものだわ。リンとお兄様だって同じよ。当然、リンは他の場所からパーティに駆けつける、っていう体裁をとるのが自然でしょ?』
そんな理屈を持ち出したミリアムであるが、実際には、ミリアムはリンの登場という大一番の舞台として、別荘の玄関ホールに続く狭い階段などではなく、広々として照明が燦々と照らす、玄関ホールを使おうと画策していることを。
ミリアムの得意げな表情を思い出して、アクセルの顔に苦笑いが浮かんだ。
そういう今夜のアクセルはといえば、やはりサロン・ド・イネスのスタッフ達に磨き上げられ眩いばかりの男ぶりである。その髪の乱れや、衣服の崩れを直す為に、すぐ側に控えているスタイリストは、その惚れ惚れするような美男ぶりに、この日何十回目かの溜め息を押し殺した。
アクセルの御用達のセレクトショップの経営者兼スタイリストであり、アクセルとは大学時代の友人である男性と、サロン・ド・イネスのスタリストが大いなる情熱を傾けて、今夜のアクセルの為に見いだしたのは、海の向こうの自由の国で貧しい移民から名を上げ、昨年のデューランズ春夏コレクションで華々しくデビューを飾った、新進気鋭のアジア系デザイナーの手によるタキシードである。
気の遠くなるような手間をかけて、薄いシルク混のウールジャージィに施された特殊な伸縮性の糸を使った刺繍は一見するとただの織り柄のようにしか見えない。しかし、その実、アクセルの身体にまるで皮膚のようにピッタリとフィットするように、見えないギャザーの役割を果たしており、信じられないようなフォルムとラインを実現している。
そのおかげで、ゆったりと肘掛け椅子に腰掛け、物憂げにほおづえをついているというのに、このタキシードにはどこにもヨレやツレが見あたらない。無論、立ち上がった時に浮かぶはずのわずかな皺の元となるそれらがないということは、まるで先程着たばかりであるかのような、光沢が失われないことを意味する。
『ものすごくお金がかかってしまうので、アイディアだけで実現していないんですけど』
新進気鋭のそのアジア系デザイナーが、東洋人特有の子どものようなのっぺりとした顔を紅潮させ、恥ずかしそうに提案したその工法を了解したのは、件のセレクトショップ経営者兼アクセルの専属スタイリストだった。
『大丈夫!大いに腕をふるいたまえよ!
なにせ、これを着るのは、あの、アクセル・ギルバート・ディスカストスなんだぞ!しかも一世一代の、婚約披露パーティだ!
その程度の金は端金だ!大丈夫、大丈夫!』
提示された金額に息を飲んだ市井出身であるサロン・ド・イネス所属のスタイリストを尻目に、鷹揚な口調でゴーサインを出したその貴族階級出身のスタイリストは、大袈裟な身振りでもって、その、小さな小さな天才デザイナーの手を握ったものだ。
そんなわけで、今夜アクセルが身につけているタキシードときたらちょっとしたアザリス国産車が買えるほどのシロモノで、しかも、たった1センチサイズが変わっただけで今の機能は失われてしまう、という夢のように儚く、そして夢のように美しい芸術品なのだった。
と、うっとりとアクセルを眺めているスタイリストの目の前で、当代きっての美丈夫が、がばりと立ち上がった。
何事か、と目を丸くしていると、まるでタイミングを合わせたようにノックが響き、白髪の執事が無言でドアを開けた。
「旦那様、お見えになります」
「わかった」
まるで一流のファッションモデルのように、立ち上がり様、ボタンを一つかけると、アクセルは飛ぶようなストライドで部屋を突っ切り、あっという間に廊下へ出た。スタイリストも慌てて後を追う。
見れば、広く明るい廊下をこれまた走るかのようなスピードで進んでいく侯爵閣下と、それを先導する執事の姿がある。スタイリストは、置いてかれまいと必死で歩調を早めた。
しかしーー。
3階から2階へと降りていく階段を駆け下り、ようやく2階から1階へと続く階段に辿り着いた時には、時、既に遅し。丁度、玄関ホールを見下ろしていて、これから入って来るであろう噂の婚約者殿の来場が、良く見えるその場所は、すっかり物見高い人々によって占拠されてしまっており、下へ下りていく為のわずかな隙間さえない状態だった。
(まずい、まずい!閣下の御髪が!)
彼のような職業に就いている人間にしかわからないていどではあるが、アクセルの左耳上の髪の毛が、ほんの少しだけ浮いていることに遠目に気付いた彼は、必死で人の隙間を探した。
と、その瞬間、周囲のざわめきがピタリと止まった。辺りを静寂が支配する。
そうして、彼は見た。
正面玄関から溢れる光の中、まるで舞台のようになっている車止めに、一台のリムジンが停まるのをーー。
真珠のように輝く白い車体に照り返す光が、益々辺りを明るく照らし出す。
そして、ダークグリーンのお仕着せを纏った運転手が、まるでボールルームダンサーのような足取りで降りてきたと思ったら、まるでバレエダンサーのように優雅な身振りで後部座席のドアを開けた。
そしてーー。
集まっていた人々の注目する視線の先、最も視線を集める場所に、今、その女性が降り立とうとしていた。