130.たった一杯のミルクティーで
「まずは、全身マッサージをさせていただきます。これをするのとしないのとでは、リンパの流れ、引いては足首の細さと顔色の保持に格段の違いがございますので」
300年は経っていると思われる、アンティークの美しい椅子にバスローブ姿で座ったリンと、鏡の中で目を合わせながらそう言うマダムの後ろから、まるで看護師のような白衣に身を包んだ女性が2名、すっと現れ、深々と完璧な最敬礼のお辞儀をした。サロン自慢の、国内有数のテクニックを持ったエステティシャン達である。
「全身マッサージの後半、下半身・前側の施術と並行して、デコルテからフェイシャルのマッサージをいたします。胸から上の皮膚への施術が一通り終わりましたら、そのまま地肌と髪の毛の施術に入ります。
髪の地肌をマッサージすると、頭髪はもちろん、顔色や顔皮膚の調子までとっても良くなるんでございますよ?というのも、リンパと血液の流れが……あらいやだ、お医者様であるミズ・バウスターには釈迦に説法でしたわね」
マダム・リグロンのお世辞半分の大袈裟な物言いにもこの2ヶ月ですっかり慣れてしまったリンは、曖昧に、しかし暖かみのある笑みで頷いた。
「そこまで終わったところで一度休憩。ブランチを摂っていただきます。
こちらの厨房にお願いして、ビタミンたっぷりのグリーンスムージーと、お肌の為にコラーゲンたっぷりの牛スネ肉の煮込みスープを、用意していただきましたわ。炭水化物は晩餐会の前にたっぷり摂っていただきますからね、午前中は消化の良い、美容に良い水分たっぷりなものを胃に入れましょう。
その後は歯のクリーニングを致します。リン様が庶民の出でありながら、矯正の必要が無いほど美しい歯並びをお持ちであったのは、僥倖でしたわ!歯並びの悪さときら、もう、なにをどうしても、どうしようもありませんからね!」
リンはマダム・リグロンの、輝くばかりに整えられた、最新の審美歯科仕込みの真っ白な歯並びを見ながら、頷いた。
「その後は、とうとう最終フィッティングでございます」
「ごめんなさい、なんだかまた少し、ウェストのサイズが小さくなってしまったみたいで。お手柔らかにお願いします」
申し訳なさそうにそう言うリンに向かって、マダムは深く頷いた。
「分かっておりましたわ。
見たところ……どうやらまたバストとウェストの差が出てしまったようですね……もう、あれほどお願いしましたのに、お痩せになってしまうなんて!食欲が減衰してしまうのはよく分かりますけれども、まったくもってお針子泣かせでいらっしゃる。ただ!このくびれはあながち、まずいものでもありませんことよ?
ミズ・バクスターの浮世離れした包容力を際立たせるのに、一役買うこと、間違いございませんわ!
それに、まぁ、うちのお針子達は手が早いですから。ね、まぁ、なんとかなりますでしょ」
マダム・リグロンからのたっての願いで、今夜のパーティ本番の直前になって、ドレスのフィッティングをすることになったのだが、これは実に4回目のフィッティングだった。 仮縫い、本縫い、最終調整、そして今日。本来であれば、仮縫いと本縫いの2回で済む筈のフィッティングである。ところが、余りの忙しさとダンスレッスンの過酷さに、本縫いと最終調整という名の納品試着までに、2センチもウェストを減らしてしまったリンに吃驚仰天したマダム・リグロンは、ドレスのラインを完璧に整える為、舞踏会当日朝の直前フィッティングを断固主張したのである。
と、苦笑いするリンの背中へと、リンの痩身に一役も二役も買った、ダンスとマナーのスパルタ教師の声が響き渡った。
「痩せたんじゃないわ、引き締まった、と言うべきよ!」
「ミリアム!!」
喜びの余り、思わず立ち上がるリンの視線の先には、今日のパーティの最大のブレーンであり、仕掛け人である、元ディスカストス侯爵令嬢、ミリアム・ヘスターの姿があった。
スッキリと動きやすいニットジャージィのワンピースに、きらきら光るラメ入り糸を織り込んだシルクコットンのジレを着たミリアムは、戸口でバッグと帽子をメイドに渡し、手袋を外しながら優雅な物腰でリンに歩み寄った。
椅子から立ち上がり、ミリアムとキスを交わしあうと、優しく抱擁され、リンは心の底からホッとして息を吐いた。
ミリアムは一目でリンの青白い顔色を見て取ると、その両頬をふっくらとしたその白い手で包み込みながら、言った。
「まぁまぁリン・バクスター!なんて顔をしているの!?まさか、不安で仕方がない、なんて言うんじゃないでしょうね?!」
ミリアムが心底心外だ、とでも言うかのように叫ぶ。それを聞いて、精一杯平静を装っていたリンも思わず本音を吐露した。
「当たり前でしょう、ミリアム?とうとう本番だっていう朝に、落ち着き払っているなんて無理よ。
今だってマダム・リグロンから今日の準備段取りを聞いて、なんとか落ち着こうと必死になっていたところよ?」
「あらイヤだ、リン、あなたったら手が冷たいわ。本当に緊張しているのね?
大丈夫、大丈夫。こういう時はね、一杯の熱いお茶が何とかしてくれるものよ?
ルイーズ、お茶となにかつまむものを用意してちょうだい、消化の良さそうなものをね?」
「イエス、マーム」
他のぽっちゃりした体型の人々と同じように、ミリアムもまた、様々な精神状態の不具合を、口になにか入れることで解決しようとするきらいがある。
しかし、それが真実であるかどうかは別にして、そんな親友のいつも通りの、泰然とした様子に、リンはほぅっと安堵の息を吐いた。
やがて、ミリアムの勧め通り砂糖たっぷり、濃厚なジャージィ牛のミルクを入れた極上のウバを一杯飲む頃には、リンの鼓動はなんとか収まり、手のひらの温度も上がってきた。
青白く不安そうだったリンの頬に、自然と上気した紅がうっすらと差すのをみて、ミリアムは内心ホッとした。
「さ、準備は良い、リン?」
ミリアムがウィンクで問う。
「ええ、大丈夫。マダム、お願いします」
安堵した様子で頷くリンの頬は、先程までに比べると随分血色が良くなっている。
「ウィー、ミズ・バクスター」
マダムはにっこりと返事すると、後ろに控えていたエステティシャン達に合図をした。
こうして、とうとう、本格的な準備が始まったのである。
なかなか晩餐会が始まらない(笑)、すみません。




