129.マダム・リグロンの野望
運命の日の夜が明けたーー。
リンは予めしっかりセットされていたアラームで目を覚ますと、部屋着の上にガウンをひっかけて、隣室へと急いだ。
青い曙光の中で不思議な色の髪の毛をしたまあるい頬の娘がすやすやと眠っているのを確認する。
「行ってくるわね、ステラ」
そっとその柔らかい額にキスをすると、浴室に向かった。
身体中がスッキリしたところでリンが寝室へ戻ると、マダム・リグロンとその腹心の部下達が待ちかまえていた。
「おはようございます、マダム」
「おはようございます、ミズ・バクスター」
白いものが混じったプラチナブロンドを大きなポンパドールに結って、項の上で小さな髷に結っているマダム・リグロンは、サロン・ド・イネスの当代の社長である。ミリアムをはじめミリアムの母に当たる先代のディスカストス侯爵夫人のスタイリストを勤め、美容に関わる全般の面倒を見るのを生業としていた。
そんなマダム・リグロンにとって、リンは正に待ちこがれた存在である。マダムのサロンにとって、ディスカストス侯爵家は金離れの良い、超優良顧客であるにも拘わらず、この20年余りというもの、先代の侯爵夫人が亡くなってから、ディスカストス公爵家からの依頼がとんとご無沙汰、といった状態が続いている。マダムにとっては、心底無念!としか言い様がない状況であろう。
しかし、むべなるかな。いまやディスカストス侯爵家において、マダムの手を必要とする令嬢はミリアム一人しかおらず、依頼の件数が少ないのは当たり前のことではあった。そこへ持ってきて、肝心のミリアム本人が社交界への顔出しを嫌い、更には普段からあまり着飾ることやお洒落に興味を持たない、ときては、どうしようもない。ディスカストス侯爵家がサロン・ド・イネスに支払う金額は、かつての最盛期に比べるとおおよそ話にならないレベルにまで落ち込んでしまっていた。
そんなところに降って湧いたのが、この婚約話である。捕らぬ狸のなんとやら……マダム・リグロンは大いに興奮した。
(あの侯爵閣下の様子からすると、今後、ディスカストス侯爵夫人にまつわる依頼が増えることは火を見るより明らかだわ!!)
脳裏には、アクセル直々に今回の仕事を依頼された際の、満足そうな顔が浮かんだ。そればかりではない。嬉しくて有頂天な様子のミリアムや、肝心要のうるさ型、ディスカストス公爵家のご意見番である筆頭家令執事、グッドマンまでがその幸せそうな表情を隠そうともせず主人の側に控えていた。
アザリス社交界に沢山の顧客を持つサロン・ド・イネスの敏腕社長としては、ああいう顔をしている人達が、愛する女性のためにかけるお金を、いかに惜しまないかが良~~くわかる、いや、事実知っている。
そんなわけで、マダム・リグロンの鼻息はすこぶる荒い。目の前にいる、この黒髪に理知的な榛色の瞳を持ち、成熟しているくせにどこか夢見がちな少女のようにも見える女性を手によりをかけて磨き上げ、人目をさらうような美女に仕立て上げる、それが彼女の野望を最も手っ取り早く実現させる為の最重要項目なのである。
(ディスカストス侯爵閣下の満足のいく結果を出せたなら、大きな信頼を勝ち取ることができたなら!今日、ミズ・バクスターをして、美のセンセーションを巻き起こすことが出来たなら!きっと、直接の依頼が増えるだけじゃなく、必ずや、他の貴族階級の女性達への影響という副次的な効果も望めるに違いない!)
つまり、これだけ注目を集めている晩餐会でリンがその美しさで人目を惹けば惹くほど、
『あのファッションコーディネートをしたのは何処のサロン?』
ということになるのは火を見るよりも明らかである。
マダムの仕事のモットーは『美の力で人を幸せにする』である。そう言う意味で、今日はリンにとってもマダム・リグロンにとっても正念場であることは間違いなかった。
そんな風に、全身からメラメラとやる気オーラを出しながら目をギラギラさせているマダム・リグロンを見て、リンは多少引き気味になりながらも内心安堵していた。
なぜならば、自分が『美容』という分野においては、まったくの素人である自信があるからだ。自分の努力が及ぶ範囲については、この5ヶ月間というもの、ありとあらゆる手間を惜しまなかったリンではあるが、なにぶん、人目を気にして美しく装うとか年頃の女性らしくおしゃれにつぎ込む時間もお金も無い人生を送ってきた自覚がある。当然、自分に似合う色も似合うドレスのラインも、ましてやメイクアップについても一切知識はない。
そんなリンにとって、マダムは非常に頼りがいのあるプロフェッショナルに映る。
(ミリアムの演出してくれたこの策略を成功させる為には、少なくとも、私は登場と同時に人目を惹き、魅了するだけの外見をしていなければならないーー。
そして、それを実現する為にマダムはいてくれる。
だったら、なにもかもマダムを信じてお任せしよう。まな板の鯉になって、自分に出来ることに集中しよう)
まさに全幅の信頼を込めて、リンは鏡台の前のゆったりとした猫足の椅子にその身を預けたのだった。
ちょっと長かったかな?
続きはまた明日!!




