126.「負け」からスタートする人生
と、リンが突然立ち上がり、すぐ脇の調理台に乗せてある電気ポットのお湯を捨て、新しい水を入れてスイッチを入れた。程なくしてシューっと沸騰したかと思うと、カチンという音と共に通電が切れる。それを待っていたかのように、手際よくリンは新しく出したマグカップにお湯を注ぎ込み、ティーバッグを入れて適当な大きさのプレートをかぶせると、手首の腕時計に目を落とした。
(…18…19…20…21…22…)
リンの後ろ姿を眺めながら、自らも手元の懐中時計で秒数をカウントしながらグッドマンは黙って待った。
「…24」
リンのアルトが終末を宣言すると、ティーバッグを素早く取りだし、ティースプーンで1回だけかき混ぜ濃度を均質にする。
くるりと振り返ったリンがグッドマンの目の前と自分の目の前に新しいお茶を置くのと同時に再び腰掛け、フーっとお茶に息を吹きかけた。
「ありがとうございます、グッドマンさん」
意外にもリンの口からまず出たのは、感謝の言葉だった。マグカップに口をつけながら目を瞠るグッドマンに向かって、リンは笑顔で続けた。
「損な役回りですよね、口うるさい執事なんて。誰かが言わなくちゃいけないような耳に痛いことを言うのが自分の仕事だ、って思っていらっしゃるんでしょう?
でも、大丈夫。きっと閣下も分かっていらっしゃいます。そして、私も感謝こそすれ、グッドマンさんを恨む事なんてしません」
「リン様……」
マグカップをテーブルに戻し、リンを凝視するグッドマンに向かって、リンは続けた。
「グッドマンさん、私ね、幸せになるのが怖かった。閣下の腕の中が、居心地が良ければ良いほど、未来を考えるのが怖かった。
それは、私にとっていつも努力は『マイナスをゼロにする』もの以外のなにものでもなかったからなんです。差別、非難、貧困、そういったマイナスの手札しかない人生だったから。一度手に入れたプラスの手札をキープするためには、どうしたらいいのか知らなかったから。
だから、閣下が優しくしてくれる度に、どうしたらいいのか分からなくて。
いつも心のどこかでブレーキをかけていたような気がするんです。いつ無くしても良いように。いつ、夢が醒めても言い様に、って」
ひどく過酷な人生を、さらりと語ってリンは笑った。
「今、グッドマンさんが教えてくださった侯爵家ならではの苦労や不自由って言うのはきっと、『プラスを減らさない』『今のプラスの値をキープする』ための努力ってことですよね?私はそういうのに慣れてません。
だから、かえってそういうのは大丈夫だと思います。手札が沢山あり過ぎて、どれを切ればいいのか迷うくらいな、一番効果的な場で、一番相応しい札を切らなければならない、その為の知識を覚えなくてはならない、そういう苦労はあるでしょうけど。
でも、私、何度でもチャレンジするし、何度負けても諦めない、っていう精神力の強さには自信があるんです。
なにせ、ほら、どんなときでもスタートが負けてる状態、っていう試合を延々と続けてきたようなものですから、私の人生って、生まれた時からずっと」
「……リン様……」
グッドマンは必死で涙を堪えた。ここで涙をこぼすのは違うような気がしたからである。リンやリンの仲間達、同じ孤児院の子ども達に対して、失礼な気がしたのだ。
「それにーー私、ずっと"自分"が怖かった。人を憎める自分、閣下を"差別"できる自分。私が思っていたのと、理想としていたのと違っていた自分ーー。
でも、目が覚めたんです。何度でも何度でも失望すればいいんですよね。反省したり、絶望したりすればいいんですよね。そして、そこから立ち上がればいい。
そんなこと、今までの人生で何度も繰り返してきたのに、相手が他人でも社会でもなく自分自身だったからといって特別に思う必要なんか無い、って、やっと気付いたんです、私」
そう言ってリンは、無理に笑っているわけでない、心の底からの笑顔を見せた。グッドマンは再び涙腺が決壊しそうになったが、なんとか耐えて、ただ頭を振った。
「それにもう、私はなにも怖くない。閣下とステラと家族になって、ずっとずっと一緒に暮らしていく、生きていくための努力ですから。
何があっても、もう、あの時の、逃げ出した自分には戻りません。もし、また、"自分"に絶望する日が来たら……閣下にそれを話します。そして助けを請おうと思います。それでもダメだったら、ミリアムやグッドマンさんにも頼ります。いいですよね?そうやって生きていく、生きていけば良いってわかったから。人生は個人戦じゃない。団体戦なんだ、って分かったから」
リンはそう言って三度、グッドマンと目を合わせ、そして向日葵のように笑った。
グッドマンは持てる力の全てを振り絞り、顔の筋肉をキリキリとコントロール下におくと、まるで余裕たっぷりといった様子で鷹揚に肯いて見せた。
しかし、心の中はまるで嵐の海のように激しく波打っていて、嬉しさやら感動やら有り難さやらのそう簡単には得られないような感動のせいで、時化のように荒れ狂っていたのだった。
やがて、リンとステラの小さな住まいを辞したグッドマンは、目立たぬようにとの配慮から、ディスカストス侯爵家所有のラグジュアリーセダンを職員住宅に横付けせず待たせてある、少し歩いた所にある大型食料品店の駐車場まで歩きながら、知らずウキウキとした気分で意気込んだ。
(さあ、ここからが私の腕の見せ所。折角リン様が頼ってくださったのです。期待されている以上の働きをお見せせねば!!)
表面的にはまったくそうした気合いも気負いも見せはしないが、心の裡には熱く決意したグッドマンを乗せ、大きなラグジュアリーセダンはマニティ島を去った。
こうしてアクセルの入院中とその後2ヶ月という、通算5ヶ月間に渡るリンの『花嫁修業』と言う名の、社会階級登攀プロジェクトは幕を開けたのである。