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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
125/152

125.あの日、マニティ島で

 ミリアムにお茶を出し終わったグッドマンが薄い紙ファイルを手にかしこまる。ミリアムが目線で合図をすると、小さく会釈した後、最もドアに近い下座に腰を下ろした。

 この執事もまた、この2ヶ月間ミリアムと共にリンの『企み』に取り組んできた張本人である。そして、とうとうこの『企み』の総仕上げとも言うべきお披露目の場、つまりは舞踏会をセッティングする段階に至ったことに深い深い感慨を禁じ得ない。


(これでとうとう旦那様も晴れてリン様とステラ様とご一緒に暮らせるようになりますね)


長かったような、短かったような不思議なこの2ヶ月間を思い起こして、グッドマンは小さく嘆息した。


(まさかリン様がこんな事を企てるとは……いやはや、どこまでも期待通り……いや、期待以上の方でした。私の目に狂いはありませんでした。

 今後、激動する時代の中で、荒波に揉まれることになるであろうディスカストス侯爵家には、ピッタリの方でございましょう)


そんなことを考えながら、自分の煎れたお茶の完璧な風味を確認しつつ味わうグッドマンの脳裏には、リンから今回の『企み』を相談された日の事が、ありありと蘇ってきたのだった。


*-*-*-*-*


 マニティ島で再会を果たし、叱責を受けたリンが、密かにグッドマンを呼び出したのはその3日後のことだった。

 誰にも知られたくない、妙な噂が立つのを避けたい、というリンの希望で、当時、リンとステラが住んでいたマニティ島公立病院の職員住宅に足を踏み入れたグッドマンは、そのこざっぱりと清潔な住環境とは別の、寒々しいほどの殺風景さに心を痛め、既に山ほど買ってあったステラの為のインテリアと玩具を運び込む許可を得ねばなるまい、と固く心に誓った。


「ここにしか椅子が二つ無いので」


恥ずかしそうに質素なダイニングテーブルの椅子を勧めてくれたリンから、ティーバッグで出したお茶が供される。小さく頭を下げて大きなマグカップに口を付けたグッドマンは、その意外な美味しさに驚かされた。目の前に出されたマニティ島の乳製品と塩を使ったというビスケットとも、とても相性が良く、質素ながら豊かな滋味を大切に生活しているリンの様子に、以前にも増して好感と尊敬の念を抱いたものだ。


「グッドマンさんがいつも淹れてくださったお茶とは比べものにならないかも知れないけれど、このティーバッグもなかなかでしょう?」


美味しく煎れるコツは、沸騰したお湯を()いだ後、お皿を蓋にして、24秒きっちり蒸らすこと、と話しながら、リンはグッドマンの斜め向かいに腰を下ろした。そして、自分のマグカップに息を吹きかけた後、一口味わい上手く淹れられていることを確認すると、


「グッドマンさんに今日、相談したかったのは、私の考えていることが果たして可能なのかどうか、ってことなんです」


と、3日前に再会した時の、らしくない怯えや罪悪感故の恥じた様子とは打って変わって、どこか吹っ切れたように見える清々しい表情でリンはそう切り出した。


「ーーといいますと?」


「3日間ずっと考えていたことなんですけどーー」


そうしてリンからこの2ヶ月間取り組むことになった企みを聞かされたグッドマンは、一二(いちに)もなく賛成した。いや、それでは足りないだろう。大賛成し、感涙に(むせ)びつつ深い感謝を示し、全面的な協力と援助を約束したのだった。


「それでーー一番の難点は、その……退院する閣下に、待っていて欲しい、ってお願いする部分だと思うんですが……。

 全部の事情を説明して、その上で待っていて欲しい旨、お願いするべきでしょうか?」


一通り、今後の予定ややらなければならないこと、連絡を取らなければならない人々のリストアップを済ませると、リンは少し言い辛そうに言った。


「まぁ、そうですねーー。ただ『2ヶ月間待っていて欲しい』だけでよろしいのでは?」


グッドマンは手元のシステム手帳(ファイロファクス)で、スケジュールの最終確認をしながら、飄々と答えた。


「ーーそれで納得していただけるでしょうか?」


只でさえ、突然失踪+無断で出産+それを秘匿という、3大原罪とも言うべき負い目を追っているリンである。アクセルにはもうこれ以上、後ろめたいことはしたくない、しないほうが良いんじゃないか、という気持ちが強い。

 それに対してグッドマンは言った。


「良いんです、良いんです、旦那様は。少しは自分の(あずか)り知らぬ企みが動いている、居心地の悪さを感じながら、ヤキモキすればよろしいのですよ」


その意地悪な言い方に、思わず


「えっ?」


と驚くリンに向かって、にっこりと微笑みながらグッドマンは言葉を継いだ。


「いくらリン様に関わる事とはいえ、今回のような命を無駄にするような行動を取るなど、あの方は自分の双肩に、ディスカストスグループに属する数多の従業員達の生活がかかっている事について、自覚が足りません。少しくらい、(ばち)が当たっても自業自得というものです」


リンがヒュッと喉を鳴らして息を飲む。敢えてそれに気付かない振りをして、グッドマンは続けた。


「先代のディスカストス侯爵閣下もご立派な方でしたが、お仕事よりも家族を大事にしたい、との想いで、ディスカストス侯爵家代々の事業を取りまとめる企業のトップの座は縁戚の方にお譲りになり、ご自分は沿革の非営利団体の活動家としてご家族と共に世界中を回ることを選択してらっしゃいました」


初めて聞く、アクセルとミリアムの両親の話に、リンは真剣に耳を傾けた。


「しかし、継嗣(けいし)としての教育を優先させたご両親に、一人アザリスに残されたアクセル様は、心のどこかでそんなご両親のやり方を(うと)んでおられた。

 そのことが、ご両親亡き後のあの方を実業界へと突き動かすきっかけになった、と私は考えております」


そこまで話して、グッドマンは少し冷めてしまったお茶をグッと飲み干し、続けた。


「しかし今、旦那様には仕事よりも、下手すると自分の命よりも大切な存在が出来た。リン様とステラ様です。

 その事自体はよろしいのです。

 私は長年、旦那様がもしかしたらこのまま、『麗しの貴公子』などという枕詞をつけられて、ゴシップの種としての私的生活しか送ることが出来ないのではないか、と気を揉んでおりましたので」


リンとその後方にあるベィビーベッドで眠るステラを眺めて、グッドマンはほっこりとした気分になりながらも、辛辣な言葉を継いだ。


「だからといって、まだ、完全に仕事中心の生活からご家族を中心の生き方へと軸足を移していないうちに、実業家としての責任を放り投げて、嵐の海にこぎ出すなどと愚かな行動をとって、いいはずがありません。

 ディスカストスグループ企業の役員達が今回の事を知ったら、良くて退任要求、悪ければ当グループを見限っての大量離反です。無論、その足でライバルグループへと赴いてリクルート活動を始めるでしょう。

 今回のことは、旦那様の命の危機と同時に、ディスカストスグループという企業体の危機だったのです」


「……わ、わたし……」


リンは蒼白になりながら、口ごもった。そもそも、そんなアクセルの行動を誘発したのは、紛れもない自分の行動だ。とても人ごと、アクセルだけの問題だとは思えない。


(どうやって償えば……?)


リンは後悔に押しつぶされそうになりつつ、グッドマンを見上げた。


「ああ、大丈夫大丈夫。

 私をはじめ、ディスカストス侯爵家直属の使用人達の努力で、今回の旦那様の不始末はどこにも漏れておりません。

 しかも、幸い、旦那様は手足に不具合があるものの、頭脳にはまったく問題はない、と他でもない主治医であるリン様がうけおってくださいました。そうですよね?」


「ええ、まぁ……」


確かにその通り、自分はグッドマンにそう説明したような気がする。


「だからといって、入院中は仕事はーー」


厳禁ですよ、と言いかけたリンを遮るように、グッドマンは言った。


「これから3ヶ月間、旦那様には出来る限りのお仕事をしていただきます。もちろん、病人として最後の一線は越えないようにいたしますが。

 しかし、折角頭も右手指も無事だったのです。決済書類にサインをするくらいのことはしていただきませんと、正直、仕事が滞って滞って仕方がありません」


「でもーー」


「リン様、ディスカストス侯爵、いいえ、特権階級の人間というのはそういうものです」


グッドマンはピシリと言った。


「王族と並ぶ貴人として遇され、沢山の特権に恵まれるということは、それに見合ったタスクに応えなければなりません。

 ディスカストス侯爵家の人間であるということはそういうことです。人よりも沢山のものを得る者は、当然、人よりも沢山のことを課せられるのです。

 それはとりもなおさず、ディスカストス侯爵家へ入った後のリン様にも同じ事態が発生するということでございます。

 医師としてのお仕事、そしてご家族。大切にしたいものを大切にする為に、今まで以上に多忙な日々が待っているのです」


グッドマンは、静かにリンを見つめた。

 ディスカストス公爵家へ、アクセルの属する階級に飛び込もうというリンの決意はありがたい。ステラという後継者も手放したくはない。大切なディスカストス侯爵家の為にも、リンが決意してくれた未来を実現したいと思う。

 しかし同時に、ディスカストス侯爵家という家名と爵位を背負っていくこと、その『高貴な(ノーブレス)義務(オブリージュ)』を果たしていくことは簡単な事ではない。

 グッドマンは、無言で考え込むリンをひたと見据えた。

 ようやく逃げるのを止め、その上、自ら階級の階段を駆け上るという、過酷な選択をしたリンに、追い打ちをかけるようなネガティブな情報を話す事はグッドマンにとって勝率五分五分の賭である。そのため、内心は大地震の大地に立ちすくむかのように、大きく不安で揺れていた。が、それを微塵も感じさせないポーカーフェイスを貫いたのは、グッドマンらしい強靱な精神力の賜物であろう。それはグッドマンのもう一つの顔であり、老練な筆頭家令執事として、ディスカストス侯爵家を影から支えてきた自負を滲ませた気丈な一面であった。

 リンは依然として黙り込んだまま、考え込んでいる。グッドマンは待った。無言の沈黙が落ちた室内に、壁の時計がたてるかすかな秒針の音が響いた。カチコチカチ……。

長くなっちゃったので、半分で区切ります。

続きはまた、明日……かな?

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