122.約束
ちょっと長くなってしまいましたが、一気に読んでいただきたく、いっぺんにアップしました(^o^)。
「閣下、2ヶ月だけ、待ってくださいますか?」
「……?」
何を言われるのかと緊張していたアクセルは、リンの意外な申し出に、一瞬呆けたような顔になった。
「私、ずっとずっと逃げていたような気がするんです。閣下から……ううん、閣下自身じゃなくて、閣下のディスカストス侯爵家という家名から」
「それは……リン……」
「ええ、分かっています。気にすることはない、っていう閣下のお気持ちは。それでも、私はーー怖かった。
3ヶ月前、閣下が突然私の前に現れた時から、そのことについてずっと考えてきました」
リンは少し遠い目をして続けた。
「3年前のあの日ーー。病院で自分の醜さに、激しさに出会って私は逃げた、って言いましたよね?それはもちろん、ウソじゃありません。
でもーー、実はもう一つ、私が閣下に、もう二度と会えない、って思いこんだ理由があったんです」
アクセルはあまりの言葉に思わず息を飲んだ。しかし、次の瞬間には胸をなで下ろした。
(リンは二度と『会えない』と言った。『会わない』でも『会いたくない』でもなく)
素直に解釈すれば、自分の意志ではなくなにか、別の事情があった、ということになる。
(私の事を嫌いになったとか、そう言うことではないはずだ)
そう、思い直してアクセルは目線でリンに話の先を促した。
「私はーーあの時、閣下を『差別』したんです……」
「差別?」
これほど、リンの人生に、リン・バクスターという人間に不似合いな言葉があるだろうか?
小さい頃から孤児として、謂われない差別に晒され、辛く惨めな思いをしても尚、人生に立ち向かう気力を持ち続けて来た、強く、気高い精神を持っているリン。アクセルの愛するリンはそういう女性だったはず。
(そのリンが、差別?私を?)
「いや、リン、それはなにかの……」
間違い、と続けようとしたアクセルをやんわりと笑顔で遮ってリンは続けた。
「私はいつでも差別『される側』でした。だからこそ、自分自身は決してなにものも差別『する』ことはすまい、そう思って生きてきました」
そこまで話したところで、当時、自分が差別『する』側になり得ると知った時の痛みを思いだし、リンは痛みに耐えるように目を閉じた。
「あの時、私を罵る司祭を心中で殺したいほど憎く感じた次の瞬間ーー私の胸に浮かんだのは閣下の顔でした。
でも、それは、以前話した時のように純粋に閣下に合わせる顔がない、という事だけじゃなくて。
私ーー。その瞬間、閣下も?って思いついたんです。『閣下も同じじゃないの?』って。『所詮貴族で私とは違う世界の人だもの』『愛してる、って言ってたって心の底じゃあ私のこと同じ人間だって思ってないんじゃないの?』って。『分かるわけない、私の辛さも厳しい人生だって分かるわけない』。『だって、閣下は所詮貴族だもの』って」
ヒュウっとアクセルの喉が鳴った。たった今、目の前で聞かされたリンの告白の言葉がアクセルの中でグルグルと回る。
(分かるわけない……所詮貴族……)
「でもそれって、同じだ、って思ったんです」
リンは苦しげにそう呟いて、ようやく目を開いた。
「衝撃でしたーー。
『差別』っていうのは、身分や立場が"上"の人が"下"だと規定した者に対してするものだ、って肌身で理解していた私が、よりによってこの、『差別』され続けてきた私が、まるで息を吸って吐く様に、ごく自然に『分かりあえないに決まっている』なんて思ったんですから」
わずかに歪んだ口角が、リンの苦々しい思いを顕しているように見えて、アクセルはそっとその頬に手をあてた。
「私、いつもいつも、思ってました。
学校で、街で、大学で、私が孤児だと分かった途端に冷たくなる人達に。『どうして、分かり合おうとしてくれないの?』って。『なぜ、分かり合えっこない、って頭から決めつけるの?』って。それなのに……」
再びリンの瞳が閉じられた。つつーっと涙がその頬を流れて落ちる。その様があまりにいじらしくて、アクセルはハンカチを取り出すと、そっとその頬にあてた。
思えば、リンがこんなふうにアクセルの前で弱音を吐くのは初めてのことのように思われた。
リンはいつだって自分に連なるありとあらゆる人々を『守る』行動をする側だったのだと、アクセルは改めて思い当たった。
(そうか、リンは私を傷つけないように、彼女自身から私を守る為に、私から逃げ出したんだな……)
驚くほどストンと、その発想がアクセルの中に落ちてきた。そして、同時に強烈な安堵が身体中を弛緩させるのを感じたのだった。
それはこの3年間、ベッドの上で過ごした日々も含めて、常にアクセルの頭の隅っこに解けずに残っていた不安を綺麗さっぱり払拭してくれるものだった。
アクセルの中に巣くった不安。それは、自分の何かがリンを苦しめ、そのせいで、リンは彼女らしくない行動(何もかもを諦めて投げだし、逃げ出す)を選ばせたのだとしたら、どうしたらよいのか?という気持ちだった。
会って、何故突然姿を消したのかを聞きたい、もしも自分のせいだとしたら、謝って、もう一度自分と共に人生を過ごしてくれないか、と頼みたい。アクセルはそう思ってきたのだ。
しかし、その一方で、万が一にも自分自身がリンの苦しみの元凶になっているのだとしたら、自分がリンの人生から退場することも選択肢の中に入れざるを得ない、そうも考えてきた。
そうしたくない、しかし、リンがそう感じているのだとしたら、諦めるしかないだろう、と。堂々巡りの思考の中で、アクセルはいつも結論を先送りにしながら、この辛い日々をやり過ごしてきた。
「決して差別という思考に陥るまい、行動をとるまいと思っていたのに、あまりに易々とその思考に嵌ってしまったことに狼狽えた私は、大急ぎで逃げ出しました。
怖かったんです……。自分が味わったのと同じ思いを、閣下にさせることが……」
「リン、もう良いんだ。わかったから……」
アクセルが再びリンを引き寄せ、左腕の中に抱き込んだ。アクセルの腕の中でリンの告白は続いた。
「ステラがお腹にいることが分かった時、とても嬉しかった。でも、どうしても閣下に連絡できなくて……。何度も何度もメールを送ろうと、電話をしようとしたんですけど、その度に勇気が出なくて」
実は丁度その頃、アクセルと有名モデルを掻き立てるゴシップ騒動が起きていた。マニティ島では、マニティ語の復活運動が盛んで、アザリス本土のタブロイド紙はあまり流通しない。しかし、アクセルのことが気になっていたリンは、「ディスカストス侯爵」のキーワードで検索していたのだが、そのせいでそのゴシップを知ったのだった。それだけなら良かったのだが、パパラッチが撮ったと思しきアクセルと件のモデルが寄り添っている(ように見える)写真を見て、すっかり落ち込んでしまい、連絡をする気力が失せてしまったのだった。
「ステラが生まれたら生まれたで、今度は毎日毎日、仕事と育児に追われる日々が続いて。ステラの瞳を覗き込むたびに閣下を思いだしては、早く連絡しなくちゃ、閣下に知らせなくちゃ、って思いながらも、結局は先送りしてばかりでした。
というのも、私は、閣下と連絡を取ることで、居場所を知られるのが怖かったからだと思います。なにより、ステラを取られそうで怖かった……」
「取られるなんて、そんな……」
「……クタクタに疲れ果てて、精根尽き果てて、それでもステラは夜泣きして眠ってくれない。そんな風にもう、指一本動かすことができない、そんな時があるんです。そんな時に限って、イヤな想像ばかりが頭に浮かんでくる。
その最たるものが……連れ去られるステラなんです。
ディスカストス侯爵家の血を引く大切な赤ん坊を、孤児院出身の母親には任せておけない、と言って、閣下がステラを連れ去ってしまう、そんな想像。そんな場面を想像してしまったら、もう……ダメでした。
ステラを取り上げられるくらいなら、と私は自分の良心に蓋をした。決してディスカストス侯爵家にバレないようにしよう、って」
そこまで言ってリンはようやく顔を上げ、アクセルの瞳を覗き込みながら続けた。
「でも、間違ってたことがよくわかりました。なにより、ステラが教えてくれました。この子、すごく人見知りなんですよ。特に男性は怖がって、よく泣くのに、閣下にはまったく泣きませんでした。分かってるんですね、自分のお父さんだ、って。決して自分に酷いことをする人じゃない、って」
(お父さん……!)
リンの口から聞くと余計に感慨深い単語だった。アクセルはひしひしと全身で幸せを味わった。
そうして、リンが再び冒頭の言葉を唇に乗せた。
「閣下が私に歩み寄って寄り添ってくれたように、今度は私が閣下に近づく為の努力をする番です。そのための時間を2ヶ月いただきたいんです」
アクセルは『そんな必要はない。今のままのリンで十分私に相応しいのだから』と言おうとして息を吸ったが、その唇に封じるようにあてられたリンの人差し指に、言おうとした言葉を封じられ、なにも言えずにただ、緑の散った榛色の瞳を見つめ返した。
「2ヶ月。私なりに頑張ってみたい。閣下の世界を理解するために、同じ目線で世界を見渡せるように、なにより、ステラと閣下とずっと一緒にいるために、最大限の努力を、準備をしたいんです」
「リン、それはどういう?」
アクセルのクエスチョンマークでいっぱいの眼差しにくすりと笑いながら、リンは言った。
「何をどうするのかは、まだ秘密です。私にもうまくいくかどうか、未だわからりませんから。でもーー」
リンは一瞬だけ不安を滲ませつつも、すぐに笑顔に戻って続けた。
「私、やり遂げたい……いいえ、絶対やり遂げます。
そして、閣下の腕の中に飛び込んでいきたい。
だから、今は、黙って退院してくださいますか?
そして、私を信じて2ヶ月、待っていてくださいますか?」
おそらく、アクセルが本気で聞き出そうとして詰問すれば、いったいリンが何をするつもりなのか、聞き出せたのだろう。しかし、アクセルはリンのその表情を、その瞳の中に宿る決意を信じたいと思った。
そして、気付いた。
(ああ、そうだ……!これが、これこそが私の愛したリン・バクスターだ)
アクセルは久々に見る、そんな活き活きとしたリンに見惚れた。生気に溢れたリン。やる気を漲らせて、世界に、未来に挑もうとするリン。その全身から沸き立つエネルギーは留まることを知らず、
(リンが、私の愛したリンが、ここにいる。そして、私の腕の中に飛び込む事を約束してくれた)
かくしてーー。
アクセル・ギルバート・ディスカストス侯爵閣下は、ざわめきと羨望の眼差しの中、マニティ島から去った。
後に様々な憶測を残して。
しかし、慎重に振る舞った甲斐があって、幸いリン・バクスター医師との仲を疑うような噂は流れずに済んだ。
そればかりか、アクセルがどこぞの男爵令嬢と病室で会っていたらしい、という根も葉もないゴシップが、ご丁寧にもマニティ島の地方紙に取り上げられた為に、人々の目はすっかりそちらに惹き付けられ、リンの事をとやかく言う者は皆無だったのである。無論その根も葉もないゴシップの裏には、ディスカストス侯爵家お抱えの情報操作担当の暗躍があったことは間違いない。
そしてディスカストス侯爵閣下が退院して間もなく、リン・バクスター医師もまたひっそりとマニティ島を去った。
勤勉で、腕も確か。なにより救急救命医として激務を耐え抜き、出産まで経験したこの小さな女医の退職を惜しむ声はとても多かったが、リンは平身低頭しながらも、強い慰留要請に最後まで首を縦に振らなかった。そして退職の理由を問われると、輝くような笑顔でこう言った。
「ステラの父親を捜しに行くんです」
と。
その後、病院のスタッフ達は皆、彼女の事を新聞の社交欄で見て驚愕することになるのであるが、それはまた別の話である。