120.恋に落ちて
「閣下……」
「ああ、もう何も言わなくて良い。リン、君の気持ちはよく分かった。そして君がどういう人かも。
私は今まで、君の気持ちを忖度しすぎたんだな。それが失敗だったってことがようやく腑に落ちたよ。
シスター・マーガレットの言ったとおりだ。君は未だ若く、そして、一本気過ぎる。自分のことを簡単に擲ち過ぎだ。
君には保護され、守られる経験が圧倒的に足りないんだな。
だから、これからは、もう遠慮しないぞ。
とにかく私の言うことを聞いてくれ。
君とステラは私の家族だ。もう誰にもなにも言わせない。君自身にもだ。私はもう大切な家族と離れて暮らすつもりはないのだからな」
アクセルは一気に言った。リンがステラを産み、そして大切に育てていたこと。さらにステラの存在がリンの人生の指針となっていた、という告白がアクセルを勇気付けた。何故なら、それはとりもなおさず、リンが自分を愛しているということだからだ。心の底から愛している、ということだとアクセルは確信した。そう、まさに自分の愛する人が、同じように自分を愛してくれている、という確信としか呼べない、強い強い感情が、アクセルの身体中に満ち、そしてアクセルを奮い立たせているのである。
ところが、リンは真っ赤になって俯きながらも、アクセルの言葉に是を唱えないのだった。
「いったい、なんなんだ?!リン!!なぜ?どうしてそんなに意地を張っているんだ!!」
この期に及んで、という言葉を飲み込んで、アクセルはそれでもリンの言い分を聞く姿勢を見せつつ、グッドマンにお茶を淹れるよう指示した。
一方、リンは初めて味わうコントロール不能な感情に翻弄され、どうしたらいいのか分からない状態に陥っていた。リンはまったく気付いていなかったが、それはまさに初恋と呼べるものでーー。つまりは、今、リン・バクスターを襲っているのは14、15の少女が陥りがちな、恋に落ちた少女特有の『なにもかもが恥ずかしい』という状態なのだった。
リンは隣にいる、自分の娘の父親、つまりはかつてベッドを共にしたことさえある男性をそっと盗み見た。グッドマンにお茶とお菓子の指示をしているその横顔は、ひどく凛々しく、また、男らしく映った。
元々、ビジネスの世界では自信に満ちた、投資のカリスマと呼ばれるアクセルである。それがいまや、心の底から愛するリンもまた、自分のことを愛してくれている、と信じられるようになったのだ。そればかりか、愛するリンと自分の髪の毛をまぜこぜにした不思議な色の髪の毛をして、青みがかった水銀のような、自分にソックリな瞳を持つ、今まで会ったことのあるどんな赤ん坊よりも美しいステラを腕に抱いている。
こうして、正真正銘、完全無欠のプリンス・チャーミングとなったアクセルは、比喩的な意味ではなく、どこからどう見ても文句のつけようのない魅力に溢れた貴公子となったのだった。
リンはそっとアクセルの顔を伺っては、恥ずかしくて溜まらず、言葉を飲んで俯く、というのを繰り返すしかできなくなってしまった。
「どうしたんだ?リン?なんとか言ってくれ。何を考えてる?」
アクセルは根気よく、自分より10才も年下の可愛い恋人の顔を覗き込みつつ甘く懇願した。そしてそんなアクセルに応えようとしては、悶えるような恥ずかしさに耐えられずに俯く……といったことを2~3回繰り返したころ、さすがにリンは慌て始めた。
(どうしよう!私、変!恥ずかしくて閣下と目を合わせられないなんて!
しかも、み、眉間によった皺がセクシーに見えるとか、左頬のエクボモドキがすごく素敵、だなんて、今までそんな風に見えたことなかったのに!
ああ、もう、顔が熱い!)
リンはとにかく、初めて自分で自分がコントロールできない状況に焦りと戸惑いを感じた。
リンは気付いていなかったが、それはリンに初めて訪れた「恋心」だった。
今まで、誰一人としてリンの心の奥底に存在した『恋の泉』の水面を揺らす人間はいなかった。世界で一人、と愛を感じてその想いを受け止めたアクセルでさえ、リンの『恋の泉』には触れることさえ出来ずに通り過ぎてしまった。そしていつのまにか、リンのアクセルに対する感情は、母親のような、家族のような想いがその中心になってしまっていたのだろう。
リンはアクセルのことを、間違いなく愛している。以前も、今現在も深く愛している。そうでなければ、いくら同情心が掻き立てられたからと言って、夜を共に過ごして、更にはシングルマザーとして子どもを産み育てようという気持ちにはならなかっただろう。
それなのに!
(私……私、今更、閣下に、こ、恋をしてしまったっていうの?)
あわてふためきながらも、自分の精神状態を分析した結果、そう結論づけざるをえなかったのである。
と、
「さ、リン様、こちらをどうぞ。少し落ち着きますよ」
そんなリンに鎮静作用のあるハーブティーを手渡しながら励ましの言葉をかけてくれたのは、勝手知ったる老執事だ。
「グッドマン、私はお前を許したわけではないんだぞ?余計な口出しはするな」
大人しくうつらうつらしているステラを右手に抱えながら、アクセルが呆れたように言った。
「許す許さないもなにも、旦那様、私はいつでも未来の侯爵夫人となるリン様のご意向に沿うように、と、誠心誠意、お仕えしているだけでございます」
グッドマンはいつもの調子で、飄々(ひょうひょう)と宣った。
「それに、ステラ様を旦那様にご紹介することも、きちんと旦那様と向き合って、心情をお話しすることも、そうするようにとリン様を説得したのは他でもない、私でございますよ?」
「なっ……!」
「それもこれも、ディスカストス侯爵家、ひいてはアクセル様に忠誠を誓っているからこそ!です。
それなのに、そんな無体な言い様。私の取った行動は旦那様に感謝されこそすれ、そのような無碍な扱いを受ける筋合いはありますまい!」
そこまで言われてしまえばアクセルとてぐうの音も出ない。
「……そうか、ご苦労だったな」
以前は決して口に出来なかった労いの言葉がその口からこぼれるのを聞いて、
(おやおや、憑き物が落ちたように素直におなりですねぇ。愛の確信は偉大ですねぇ~)
と落ち着いたアクセルの労いの言葉に、思わず感心するグッドマンだった。
一方リンはといえば、熱いハーブティーをフーフー冷ましながら、気持ちを落ち着けつつあった。それは、とりもなおさず、今から話す事をアクセルになんとか理解して貰うか、理解してくれなくともリンのことを信じて貰う必要があるからなのだ。
(さ、リン!頑張って閣下に分かっていただかなくては!)
気分はすっかり、両頬をバチーン!と叩いて気合いを入れる、女子アスリートのような気分である。
そうしてリンはカップをソーサーに戻すと、意を決してアクセルの方へと向き直ったのだった。