12.伝わらない仄めかし
「閣下には、今、恋人はいないんですか?」
キッチンの隅っこに設えられた食事コーナーで、シェフ特製の朝食プレートに乗っている分厚いベーコンをつつきながら、リンが訊ねた。
「旦那様は仕事中毒でございますからねぇ…。まぁ、結婚に結びつかないとしても、恋人でも出来れば、あんな雌ハイエナのような方々につけ込まれることも減るでしょうに、とは思いますが、あいにく現在のところ、特定の女性はいらっしゃいませんね。」
と令嬢を雌ハイエナと一刀両断である。その歯に衣着せない表現に驚きつつ、焼きたてのクロワッサンを頬張りながらリンは呟いた。
「意外…ですね。」
(閣下に恋人がいないことも、グッドマンさんの辛辣キャラも…。)
「そうですか?旦那様はああ見えて、非常に生真面目でお堅い人間です。そうした点はミリアム様と似ておられる。
おそらく…旦那様はミリアム様と同じような好みをしていらっしゃるのではないかと思います。ミリアム様の好む方を旦那様も好かれるのではないか、と。」
そう仄めかしながら、グッドマンはリンをそっと観察した。この、黒い髪をしてまろやかな腰の曲線を持つ少女は、あの誰もが恋に落ちると言われているアクセルにまったく無関心を貫いている。麗しのディスカストス侯爵に、恋人がいようといまいと、まったく気にしていない様子でキュウリのサンドイッチを頬張り、その美味しさに目をきらきらさせているのだ。
(ハァー…。
もしかしたら、旦那様に関するよりも、ディスカストス侯爵家秘伝のキュウリのサンドイッチに対する方が、関心が高いのかもしれませんね、バクスター様は…。
旦那様も、そして私も前途多難というところでしょうか…。
先ほどの仄めかしもバクスター様のハートにはまったく響かず、といったところですし…。)
そこまで考えたところで、全ての準備が整ったので、ティーワゴンの上を最後にもう一度見直してから、グッドマンは話題を変えた。
「まぁ、何はともあれ、今年はようございましたよ。ワーカホリックの旦那様が、ちゃんと夏休みを取る気になってくださったようで。これもひとえにバクスター様のおかげです。」
「えっ?…ああ、それはですね、閣下は私を見張っているんです。大切な妹であるミリアムに、私みたいな『孤児の貧乏人』に妙なことを吹き込まれないように、って。」
「…。」
優しげでいて辛辣なこの老執事から、無言で何とも言えない視線を受けて、リンは居心地悪そうに少し身じろぎした。
しかし依然としてアクセルの事は頭になかった。リンの中では、アクセルに関することは、すでに割り切り済みである。アクセルは『演技』をする、と言っていた。だとしたら、アクセルが今後リンに対して示すどんな『親愛の情』も全ては偽りだと、肝に銘じねばなるまい。それは強い自己暗示のようなものだったが、リンには慣れた考え方といえるだろう。孤児院の家族以外に対しては、感情を抑え理性で対応するようにするに越したことはない。相手の言動を穿って考えることをせず、嫌われたら去り、蔑まれたら離れる。そう、至極シンプルに行動する。そうせずに真っ向から立ち向かい、相手の偏見を変えようとしても徒労に終わるのが関の山だからだ。幼少時からの数々の経験より、リンはそう悟っていた。それが越えられない身分の差、というものであろう。
そのため、グッドマンが期待しているようなアクセルに対する感情も、リンの中にははなから生まれようがないといえる。そういう意味ではすでにすべては手遅れなのである。
そう。リンとアクセルの間柄は、あの、ウィリアムズ・カレッジの面接室で、得体の知れない感情に振り回されたアクセルが蔑視発言をした瞬間に決まってしまった。少なくともリンにとっては。もしも今後、アクセルがリンに対してグッドマンの期待する類のなんらかの行動を起こすとすれば、その成就の為には大いに困難が伴うであろう事がすでに確定済みなのであった。
しかし、グッドマンはそれを知らなかった。だから、こうして懸命になっている。が、リンには一切届いていない。まったく。完全に…。
それでもこの辛辣な老執事は、一縷の望みを掛けて慇懃に言い募った。
「見張るなんて、そんな。旦那様はそこまで依怙地な方ではございませんよ?
心の底では、もうとっくにバクスター様がミリアム様にとってかけがえのないご友人であると分かってらっしゃいますよ、きっと。」
「はぁ…。」
(そうかな?いや、そんなことは無いでしょう…。)
気のない相づちを打つリンを残し、ため息を一つ。グッドマンはキッチンを出ていった。
それから10分ほどが過ぎた。
そして、静かな一人の時間を満喫しながら、新聞を読み、美味しいカフェオレを堪能していたリンの元へ戻ってきたグッドマンが、爆弾発言を落としたのだった。