110.リンの独白(5)
『自制心』は、いつだって私の味方だと。私はそう思いながら生きてきました。いつでも自分を律し、コントロールすることができる、そう思って生きてきたんです。
小さい頃は良く泣きました。恨み言もこぼしました。謂われのない差別や糾弾にいちいち言い返したり、反駁し、抗い、人々の偏見を正そうと躍起になった時期もありました。
でも、なにも変わらなかった。本当に、なんにも変わらなかったんですーー。
小さな私は絶望し、一時期はなにもかもに無気力になったり、自棄を起こしてなにもかもを放り出したりしたこともあった。
それでもーー。シスター・マーガレットは決して私を見放さず、見捨てず、繰り返し神の教えを話してくれた。そして、言葉ではなく行動でしか差別をはねつけることはできないことを教えてくれたのです。
『リン、あの人達はあなた達孤児は、きっと幸せにはなれないと思っている。親のない子どもは、親の愛情を受けられなかった子どもは、どんな道筋を辿っても、けっして幸せにはたどり着けない、って、そう、信じ込んでいる。
だから、あなたは幸せにならなくてはいけません。あなたのその素晴らしい人生を使って、幸せを体現しなければなりません』
『見返してやるの?』
『それとは少し違いますね……』
シスター・マーガレットは言いました。
『あなたが幸せになるために、あなたのエネルギーの全てを注ぎなさい、リン。
神があなたに与えたこの人生を、その類い希なる能力を、あなたを苛む人々の望みを叶える為に使うのはおやめなさい』
『……あいつらの望みって?』
『あなたが不幸になること』
シスターの眼差しが、哀しみに揺れたのがわかりました。
『自分たちと違う、あなた達孤児が不幸になること。なぜならば、それが自分たちが正しくて、幸せであることの証拠だと、信じたいからです。
人間は弱い生き物です。自分が努力するよりも、手っ取り早く幸せを感じられる方法を好むのです。
あなた達を憎み、蔑み、虐める人たちは、あなた達が不幸になるのを見て、思うのです。ああ、自分はまだマシだ、と』
『そんなの、ヒドイ!』
『だから、リン。あなたの力を、その溢れんばかりのエネルギーを、時間を、人生を、あなたが幸せになる為に使いなさい。自分を、他人を、不幸にする為に使ってはいけません』
幼い日、その日から、私の本当の人生は始まったのです。
私は自制心を学びました。差別をはねのける為に、イジメに立ち向かう為に、信仰と許しをテーマに自分を律することを選んだ。
どんなに差別されようと、ひどく当たられようとも、そんな相手を許そうと思って、許せると信じて、生きてきました。心の底からそう信じていました。シスター・マーガレットの、ひいては神の教えのままにーー。
*-*-*-*-*
ところが、私は気付きました。私の中のその怒りと憎しみの塊に。こんなものが自分の中に巣くっているなんて!私の中に、こんな感情があるなんて!
ーーあの日、私は知ったのです。
自分が恐ろしい人間であることを。
私を苛み、差別し、石を持って追い立てた人々と何ら変わらない、醜い人間であることを。
清廉潔白で、優しく、気高く、人を許し、受け入れ、そして、なにも恐れることなく生きる、私が目指して、そしてそういう自分であるはずだ、と、そういう自分でありたいと信じたかった『私自身』が自己欺瞞に過ぎなかったことをーー。
(どうしようーー)
私は心底恐怖しました。
(どうしようーーどうしよう、私ーー)
自分が恐ろしい。自分の中にある憎しみが恐ろしい。そう思いました。
「う……うぅ……」
喉の奥から嗚咽とも悲鳴ともつかない唸り声のような音が漏れ出しました。
目の前の男は、人間として最低最悪の差別主義者であることは間違いありません。ところが、それを糾弾し、罵り、死んでしまえ、とまで望んだ私だって、同じ穴の狢ではないか!
男の憎しみを吸い込んで、ぐるりとひっくり返った私の瞳は、自分自身のありのままの姿を見つけました。そこには、憎しみと怒りを抱えた、醜くて、ちっぽけな自分を見つけた。
そうしてーー、自分自身に絶望した、その時ーー。
私の脳裏に、過たず、思い浮かんだものがありました。
それは、閣下のあの灰色の瞳。
私を愛し、慈しみ、そして母親にするように全幅の信頼を寄せる、あの、暖かな瞳。
私の愛する、大好きな、あの、灰色の瞳。
ここで一旦、緊迫の独白シーンも一区切り。
次回の更新は8/31(土)になります。
いつもいつもご愛読、どうもありがとうございます☆彡




