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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
107/152

107.リンの独白(2)

 なんという巡り合わせなのでしょう……。

 久しぶりに会えた恋人と身も心も結ばれ。

 大切な親友は死線を越えて意識を取り戻し。

 そして、人生で最も過酷と言える試験と試される日々に打ち勝って、最大の目標を達成したという報せを聞いた。

 そんな、幸せの絶頂にいるこの私の前に、いまだ記憶も生々しい、深い絶望の根源が現れたのです。

 しかも、その男は相変わらずのひどい人間、いいえ、私を苛んだ時に輪をかけて無慈悲な人間として、目の前で()(つくば)ってまで慈悲を請う人達をまるで虫けらのように蹴散らして、差別的な暴言をまき散らしているーー。

 その身体はブクブクと膨れ上がり、顔色も手足も赤黒く変色しているのが見て取れます。


(肝臓か腎臓をやられてるーー多分アルコールだ)


私の中の冷静な医者の目がそう判断出来るほど、外見が変化している。しかしなにより私をゾッとさせたのはその狂気をはらんだ瞳でした。

 あの、最終試問の現場で私のアラを探してチラチラと投げかけていた姑息な視線とは比べものにならないくらい、その目つきは常軌を逸していた。そして、目の前の女性達を、心底汚らしいと思っているかのように、顔をゆがめていたのです。

 私の足は止まり、いつのまにか無意識に両手で口をおおって立ちつくしていましたーー。


*-*-*-*-*


「兄さんは犯罪者なんかじゃない!なにかの間違いです!!」


少女が人でなしの司祭の足に(すが)って叫びました。


「ええい、触るな!(けが)らわしい!!うるさい、うるさい!

 ……まったくなんで私がこんな汚い貧民達のために働かなければならないんだ……」


男は聖職者とは思えない暴言を吐き、その可哀想な少女を払いのけるように足を蹴り出しました。

 しかし、今、この手を離したら最後、司祭は『最後の祝福』を兄に授けてはくれないかも知れない……、そう思ったのでしょう。少女はまるで死んでも離すまい、というかのように、余計しっかりと、司祭の膝下にその腕を巻き付けます。

 次の瞬間です。

 男は、事もあろうに、反対側の足で少女の顔を蹴りつけ、少し腕が緩んだところにもってきて、更に2度3度と蹴り飛ばしたんです。


「ングッ!」


「エミリ!!」


意識を失ったらしく、しがみついていた腕の力を失って少女が廊下に倒れ込みました。母親がその身体を庇うように取りすがるのを見て、私は弾かれたように少女の傍らに駆け寄りました。


「エミリ!エミリ!!」


ぐったりしている少女の脈を取り、瞼をひっくり返したりしてバイタルを一通り確認します。


「エミリさん!聞こえますか?!エミリさん!エミリさん!」


耳許で呼びかけましたが、少女は依然、ぐったりとしたままです。おそらく、思い切り頭を蹴りつけられた拍子に脳震盪を起こしたのでしょう。見ると、蹴りつけられた時に唇を切ったらしく、口元からも血が流れていてーー。とにかく(あわ)れな有様でした。


「……ヒドい……」


けれども、(あわ)れんでいても始まりません。彼女を治療をしなければならない。私の中に医者としての使命感が燃え上がりました。


(なにより、この司祭から、少しでも遠ざけなければーー。また何をされるかわからない)


相手はすでに正気を失っているとしか思えない様相を呈しており、説得も、ましてや糾弾もなにもかも無駄だろうと、思われました。

 なによりも、目の前で繰り広げられた暴力が私を恐怖させました。男が少女を蹴りつけた様子には一切の躊躇(ためら)いも、手加減は見られませんでしたから。


(彼女をどこかに横にしてあげないとーー)


私は彼女の母親に指示して、足を持たせ、自分は脇の下に腕を差し入れると、すぐ側にあった長いすに彼女を運んで横たわらせました。

 少女の顔色はまるで紙のように白く、若いはずなのにその肌にはまったくハリが見られず、乾ききってまるで紙のようでした。


「MRTを取った方がいいかもしれない……」


そう呟き、救急救命スタッフを呼ぶ為に立ち上がろうとした私の腕を掴んだ手がありました。彼女の母親でした。

 少女によく似た顔つきのその女性は、首を振って言いました。


「わ、私たち、お、お、お金が払えないから無保険なんです……。お、お医者さんには、か、か、かかれませんッ……」


「ーー頭を打ったんですよ?なんでもないかもしれない。

 でも、頭に血の塊が出来ていたり、血管の損傷が出来ていたら、それこそ命に関わります」


私はなるべく冷静な口調で言いました。母親の顔に恐怖が浮かびました。口を開け、言葉を失ったまま、ぐったりする娘と私の間で視線を彷徨わせました。

 しかし、悲壮な表情の母親とは裏腹に、私はと言えば見覚えのあるその表情に、沸々とアドレナリンが沸き立つのを感じました。

 それは、小さい頃から何度も何度も見たことのある表情でした。孤児院の子供が高熱を出したり、ひどい怪我をして病院に行かなければならない状況になった時、シスター達が浮かべるのと同じ表情です。

 絶望と、恐れ。決断を迫られ苦悩する弱さと、同時に、それに立ち向かおうとする強さ、という相反する2つの気持ちが共存する。守るべき子供を救う為に気持ちを奮い立たせようとする気概と、自分が立ち向かわなければならない困難に怯える気持ち、そしてそれに負けまいと思いつつも、それでも(まど)う心とーー。それらがごちゃごちゃに混じり合って、どうしたらいいのかわからない混乱に陥っている表情です。

 私は、母親の手を強く強く握りしめ、目を見つめました。その手のぬくもりと力強さに、彼女がハっとしたように私の顔を見つめ返しました。

 私はゆっくりと、一つずつ、言葉を句切るように言いました。


「大丈夫。政府の助成制度があります」


彼女が無言でふるふると頭を横に振りました。おそらく、以前、その制度を使おうとして、そして、阻まれたのでしょう……。その目には絶望浮かび、そして涙と共に溢れて頬を伝っていきます。私はニッコリと笑いながら、彼女とは逆に何度か頭を縦に振りながら続けました。


「私がお手伝いしますよ」


彼女は、えっ?と、私の顔を見つめました。

 その反応に、言葉が伝わっていることを感じながら、意識して柔らかい口調になるように気をつけつつ、優しく、しかし断固とした言い方で、言葉を続けました。


「私は孤児です。そして、医者でもあります」


「……お医者様……?」


「そう。孤児院で育ちましたから、病気で困った子どものために助成金申請をした経験は沢山あるんです」


「孤児院……困った……?」


「ええ、だから大丈夫。娘さんを救急救命センターに運びましょう」


「ああ……あああ……!」


母親は、まるで溺れる人がしがみつくかのように、私の手をその両手で握り込んできました。冷たい手。その心痛を思うと胸が痛みました。息子を亡くし、その上、娘が暴力を振るわれて、命に関わるかもしれない状況に陥ってしまったのです。貧困の中で、孤立無援で必死に生きてきたに違いありません。やせ細ったその手の、骨張った指の関節が痛いくらいに私の両手にくい込みました。


「救急救命センターに応援を要請しますね。ちょっと待っていてください。内線をかけてきます」


そう言って立ち上がり、一つ向こうの区画にあるはずのナースステーションに向かって歩き出そうとした私でしたが、ホッとしたのも束の間、私の背後からは悪魔の顎門(アギト)が私たちを飲み込もうとして、ゆっくりと、でも、確実に近づいて来ていたのです。

またもや緊迫のシーンが続くので、続きは明日、更新します☆彡


いつもご愛読、どうもありがとうございます♪

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