106.リンの独白(1)
「あの日の朝、私は世界で一番幸せな人間でした。
直後にあんな風に姿を消して、今の今まで無しのつぶてだった私の言う事なんて信じてもらえないかも知れませんが……。
私にとって、閣下と結ばれたことは、間違いなく、これ以上ないくらい幸せで素晴らしい経験だったのです。自分と閣下との未来には、一点の翳りもないって、心の底から確信していたーー」
リンはそんなふうに口火を切った。そして、その時の幸せだった気持ちをそっと反芻するかのように、少し遠い目でしばし言葉を無くしたかのように、沈黙した。
「ーーなにもかもが、輝いて見えました」
しばしの沈黙の後、ようやくリンがそう、言葉を絞り出すように呟くのを聞いて、グッドマンは大きく頷いた。話の先を励ますかのようにーー。
一方、老執事からの、相変わらずの底なしの優しさに勇気を得たリンは、あの辛かった出来事を語り始めたのだったーー。
*-*-*-*-*
ミリアムが覚醒した後、枕元で閣下を待っている時でした、私のスマートフォンが鳴ったのは。急いで病室を出て、少し離れたエレベータホールで電話を取ると、相手はドクター・ブルームでした。無事、就業許可証が下りた、という報せでした。
「おめでとう!やったな、バクスター」
ドクター・ブルームらしい、どこか飄々とした声音に、確かに喜びと祝福の響きを感じて、私はただただ『ありがとうございます』と繰り返しました。スマートフォンを切ると、全身から力が抜けそうになったのを覚えています。それくらい、心底ホッとした。安堵したんです。
想像してみてください。
ちっぽけで、無力で、いつでもどこに行っても、孤児だと言うだけで差別を受けて生きてきた私が、お医者さんになったんですよ?私が医者になることを決意した時、シスター・マーガレット以外の大人は、誰一人としてまともに受け取りませんでした。それくらい、周囲にとっては無謀な挑戦だと思われていたのです。
肩の荷が下りたせいか、私の頭の中には、小さい頃から病気で辛い思いをした日々が走馬燈のように駆けめぐりました。ああ、これでもう、孤児院の子供達を辛い目に遭わせずに済む、そう思いました。また、一生懸命働けば、少しだけでも仕送りが出来るかもしれない、そんなふうに考えて、自然と顔は綻んだものです。もしも、あの時の私を見ている人がいたとしたら、きっと、気味悪がったんじゃないかな。後から後から沸いてくる笑いを押さえることもできず、私は一人ニヤニヤと笑い続けました。
ところが、不思議と私の将来像というか、未来の夢想には、閣下との生活は登場しませんでした。……ひどいですよね……、でも本当なんです。忙しく立ち働き、勉強し、仕送りをする。時々、孤児院に帰って、子供達の健康状態のチェックをする。そんな未来の日々の中に、閣下はどこにも見あたりませんでした。
今考えると、多分、閣下とのことは私にとって夢の中の出来事みたいなものだったのかも知れません。良い夢を見た。でもあれは完全に夢物語のようなもので、自分の生きていく、現実の生活はこっちなんだ、って。そんなふうに、思いこもうとしていたのかも知れません……。
とにかく、その瞬間、私の心の中には『医者として働く』という未来に向かって、まっすぐな一本路がスーッと延びていて。『やっとここまで辿り着いた』っていう感無量な気持ちでいっぱいでした。
その後、シスター・マーガレットに電話をかけて無事、医師としての就業許可証が出たことを伝えると、シスターも、孤児院の子供達も、とても喜んでくれたのを覚えています。小さい子から大きい子まで、全員が私と喋りたがったから、最後は受話器の取り合いになってしまって。なかなか受話器が回ってこない小さな子供が泣き出してーー。目の前のエレベーターがチーン、と音を立てて開いたのは、懸命にそれを宥めていた時でした。
*-*-*-*-*
「待って、待ってください、司祭様!」
「うるさい、離せ離せ!」
「お願いです、お願いですから、トーマスに、トーマスに最後のお祈りを、祝福を授けてやってください!どうか!どうか、この通りですから!」
「だからさっきから言っているだろう?!犯罪者になんか、最後の祝福を授けてやる筋合いはない!」
「司祭様!兄さんが天国に行けるようにお祈りしてください!」
「ええい、しつこいな!いい加減にしろ!」
でっぷりと太った身体のせいで、本当はドレープが美しいはずの白い司祭服を、パッツンパッツンに着ている司祭が、口汚く歩き去ろうとするのに、二人の女性、親子だろう中年女性と高校生くらいの少女が取りすがって、必死で祝福の祈祷をしてくれるように、懇願していました。
女性達は二人とも痛々しいほどに痩せて、見るからに古ぼけてくたくたになって、色のくすんだ服を身につけていて、私にはそれが一目で慈善団体からもらった古着だということが分かりました。私自身、小さい頃からそれと同じ古着を身につけてきましたから。
二人は代わる代わる、その司祭と思しき男性の前に跪いて土下座しては、最後の祝福を依頼していました。女性にとっては息子、少女にとっては兄にあたる人が病院で亡くなったのでしょう。そして、その司祭がどうやら当番制の聖職者として詰めていたのに、亡くなった方への『最後の祝福』をしてやらなかったのだと、察せられました。
昨今では特にこだわる人も少ない死者の為の『最後の祝福』ですが、一部の信仰に篤い人達の間では未だに重要視されているらしく、必死で頼み込んでいるのがとても痛々しかった……。
もしかしたら、『最後の祝福』無しでは、天国に行けずに荒野を彷徨い、下手すると地獄へ迷い込んでしまうと本気で恐れていたのかもしれません。とにかく、その控えめで弱々しい様子とは裏腹に、決して諦めない様子でその太った司祭に縋り付いているのが、見ていてとても辛かったのを覚えています。
(なんて惨いことを……)
私は知らず知らずに顔を顰めて、その冷酷な司祭の顔を見るともなしに眺めました。と、次の瞬間、私の背筋に寒気が走りました!
何故ならーー。
それは、あの、ウィリアムズ・カレッジの医師免許試験における最終口頭試問で、孤児である、ただそれだけを理由に私を不合格にしようとした、あの差別主義者である司祭だったからです!
緊迫のシーンが続くので、続きは明日、更新します☆彡
いつもご愛読、どうもありがとうございます♪




