105.無言の説得
さて、場面は現在に戻るーー。
小さなリンの個室で向かい合うリンとグッドマン。疲れた様子で黙り込むリンを見つめ、やる気を奮い立たせる老執事は殊更に背筋をピンと伸ばした。
(いったいバクスター様になにが起こったのかーー?)
この2年半の間、何千回、何万回と繰り返してきた自問自答が、グッドマンの頭に思い浮かぶ。
しかし、今日この時、今までの自問自答と決定的に違っているのは、目の前にリン本人がいることである。グッドマンは根気よく考えた。
(とりあえず、こう頑なに否定していらっしゃるステラ様のことは後に回して、何故?全てを捨てて失踪したのか、その理由をお訊きするべきでしょうね……)
グッドマンは頭を切り換えると、椅子の上で姿勢を正し、改めてリンの方へと身体を向けたのだった。
*-*-*-*-*
「ーーお話を変えましょうか……。
バクスター様、あの日、エッジロードの病院から、何故?急に姿を消したのですか?」
「……」
リンは思わず、一瞬ビクリと身体を震わせ、ギュッと目を閉じた。
実はこの問いを投げかけられる場面も、何度も予測して頭の中でシミュレーションしてきたリンである。しかし、シミュレーションの中ではステラは見つけられてはいないし、ましてや見つけられた相手はグッドマンではなく、ステラがアクセルとうり二つであると判定されてもいなかった。
どうしようもなかったとは言え、よりによって、アクセルの小さい頃をこれ以上ないほど良く知っているグッドマンに、よりによってステラを見られてしまうとは、なんとも間が悪かったとしか言いようがない。
毎日その灰色の瞳にアクセルを思いだしては、心を慰めていたリンは、腕の中ですやすやと眠る小さなステラの不思議な色合いをした巻き毛をそっと手で梳きながら、ため息をついた。
リンはウソをつくのが苦手だった。元々の性格もさることながら、ウソをついて良いことなどなにも無いことを、実感しながら生きてきたからである。にも関わらず、すでに大きな大きなウソをついてしまった。しかも、リンにとってはバンジージャンプで飛び降りるくらいの覚悟を総動員した、せっかくの大ウソだったというのに、どうやらグッドマンにはまったく通用していないようだ。さもありなん、相手は百戦錬磨の老練な侯爵家筆頭家令執事なのである。もしかしたら、侯爵本人よりも手強いかも知れない。
リンはほんの少しだけ、更にウソを塗り重ねることを躊躇った。どんなウソを話しても、グッドマンには、なにもかもを見透かされてしまいそうな気さえした。場数も器も違うのだからしかたがない。
(それでも……。グッドマンさんが信じようが信じまいが、納得しようがしまいが、とにかくやるだけのことはやってみなければ……)
リンは悲壮な覚悟を決めて、ヒュッと息を吸い込むと、しゃべり出そうとして、顔を上げた。
ところが、である。
グッドマンの瞳の中にあった、堪えようもない哀しみと愛情の影が目に飛び込んでくるやいなや、喉まで出かかっていた数々の言い訳や、嘘が、シュゥーと音を立てながら、跡形もなく消えてしまったのだった。
(ダメ!ダメだわ!)
リンは思わず、ステラを抱いていない方の手で、目元を覆った。それ以上グッドマンの瞳を、その底なしの愛情に溢れた眼差しを見ていられなかったのである。
優しく、どんなときも穏やかで、それでいてユーモアに溢れていて、茶目っ気たっぷりな、有能な執事。
ギースで過ごした初めての夏、アクセルによって『偽りの友愛』を強要され、こっぴどく傷つけられた時からずっと、この老執事はリンの味方だったのだ。
勉強に追われ、緊張の連続だった日々の中、ミリアムへの差し入れと共に、そっと同梱された小さなメモのような手紙とささやかなプレゼントに、どれだけ励まされたことだろう!会う度にかけられる、気遣いに溢れた言葉に、どれだけ心安らいだことだろう!
リンにとって、グッドマンは会ったこともない父親のような存在だった。いつだってどんな時だって、グッドマンはリンに愛情を示してくれていたのだ。リンの脳裏をものすごい勢いでこの何年間かの間に刻まれた思い出が駆けめぐった。ギースのバカンス。ウィリアムズ・カレッジの面会室で煎れてもらった信じられないくらい美味しいお茶。寒い夜に届いた優しい手触りの膝掛け。そしてそれについていた励ましの言葉と美しいカードに型押しされた、金のイニシャル……。グッドマンにまつわるありとあらゆる記憶が、幸せと愛情の記憶がリンの全身を大波の様に飲み込んだ。リンは息を詰めて、それが通り過ぎるのを待った。
そして、全身の強ばりが緩んでいくのと同時に、リンは悟った。
(私はいったい何をしているの……?!なにを喋ろうというの……?!これ以上、私を愛して、私を大切にしてくれた人達に、ウソと欺瞞を塗り重ねて、どうするの?!)
再び、地面がぐらぐらと揺れたような気がした。リンは弾かれたように顔を上げた。そこには変わりなく、慈悲の光を湛えたグッドマンの瞳があった。リンはそれを再び覗き込み、そしてそこに、変わりない友愛と優しさ、そしてリンを信じる心を見た。例えリンがウソをついたとしても、この優しい老執事はきっと、その状況に同情し、理解しようと努めてくれることだろう。
「……ああ……!!」
リンは短く息を吐き出すと、知らず知らずに目をギュッと閉じた。リンの心を鎧っていたものが、バラバラと剥がれ落ち、ガラガラと崩れ落ちていった。
そんなリンの様子を見ていたグッドマンは、控えめな様子でそっと声をかけた。
「バクスター様?」
そしてリンの返答を待った。じっと、静かに、何も言わなかった。
そうしてーー。
廊下の外が、通常出勤の病院スタッフ達が交わす元気の良い挨拶で騒がしくなりーー。
そして朝のミーティングが始まり、辺りが束の間の静けさに包まれた頃ーー。
リンはようやく顔を上げた。そしてグッドマンは見た。静かな緊張と、決意、そして覚悟を湛えたリンの瞳を。
それは、正しく、グッドマンの良く知る、ミリアムを魅了し、アクセルが恋に落ちた、リン・バクスター、その人だった。
グッドマンには、リンがなみなみならぬ覚悟を決めたように見えた。全身に漲る緊張も、苦悩の影も未だ完全には消えていなかったけれども、それでもその双眸には、どこかリラックスしたような、なにかを吹っ切った色が浮かび、その榛色は、グッドマンの記憶の中のどんなリンよりも、どこか深みを増したように見えた。
リンはぐっすり寝入っているステラを無言でデスク脇のベビーベッドに寝かせ、再びソファに戻ると、とうとう長い長い独白を始めたのだった。




