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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
103/152

103.シスター・マーガレット、かく語りき


 リンが消えて以来こっち、ディスカストス家の兄妹(きょうだい)はもちろん、グッドマンもリチャードも鬱々とした日々を過ごすことになった。皆それぞれに、リンとの間に厚い友情や深い愛情が存在していると信じていたのに、リンは何も言わずに消えたーー。その行動は、ディスカストス侯爵家の人々を深く深く、傷つけた。

 今までどんなときでも挫けず、常に明るかったミリアムでさえ、じっと考え込むことが多くなった。そんなミリアムにつられて、暖かな春の日射しのように温厚で明るかったリチャードもまた、ディスカストス家にたゆたう、憂鬱の靄にまかれて口数少なく、ミリアムの側にそっと寄りそうことしか出来ない日々を過ごすことになった。

 一方アクセルはといえば、表面上は平静を装っていたが、その熾烈な仕事ぶりには鬼気迫るものがあった。

 そのプライベートを完全に犠牲にした仕事ぶりに、『いつ休んでいるのか?』と、健康を心配する周囲を笑顔で無視して、アクセルは西に東にと奔走した。

 以前より計画していたデューランズ・ワインの輸出入を取り扱う新しい会社の設立プロジェクトの開始を繰り上げると、選りすぐりの部下達と共に、アザリスとデューランズを行ったり来たりと身を粉にして働く日々をスタートさせた。そして、そうした日々の傍らで、常に2カ国に跨るリン捜索チームの報告を受けては、あちこちへと足を伸ばしている事をグッドマンは知っていた。

 ところで、リンに去られ、肩を落としていたアクセルがこんなふうに精力的に活動し始めた契機となったのは、他でもない、リンを育てた母親とも言うべきシスター・マーガレットとの邂逅以降のことなのであった。


*-*-*-*-*


 リンが消えた時、アクセルはシスター・マーガレットに真っ先に連絡をとった。リンにとってその孤児院は生家も同然、そしてシスター・マーガレットは正に母親同然の存在だ。

 なんらかの理由で自分を避けて逃げたリンだとしても、いくらなんでも自分の家族には連絡を入れるだろう、というのがアクセル、ミリアム、そしてグッドマンの一致した見解だった。

 ところがアクセルの問い合わせに、シスター・マーガレットは戸惑いを隠せない様子で、リンからはなんの連絡も無いことを告げ、そんなシスターの言を信じたくなかったアクセルは、一縷(いちる)の望みを胸に、(くだん)の孤児院を訪ねることにした。

 礼儀正しく、手順通りのアポイントメントを取って現れた、貴族の中の貴族とも言うべき美しい男性を目の前にして、シスター・マーガレットはとても驚いたが、リンがこの男性に惹かれたであろうことは、すぐにわかった。

 隙のない立ち居振る舞いと、完璧な所作。高そうなスーツに色々と手間暇をかけたトレーニング故のしなやかな肢体を包み、この世の全てをその絶大な権力でコントロール下に置いているだろう美丈夫が、リンの事を話す時だけ垣間見せる揺れ動く瞳に、シスター・マーガレットは大きく心を揺さぶられた。それは灰色の瞳の中に(ひそ)む深い寂寥であり、途方に暮れて黄昏の中に立ちすくむ少年の影だった。


「リンを……、あの子を愛してくださってるのですね」


リンによく似たその落ち着いた話し方に、アクセルはハッとして、弾かれたように視線を上げた。


「ありがとうございます、ディスカストス侯爵閣下。ありがとう」


「……」


言葉を(うしな)ったまま、見つめ返すアクセルに、シスター・マーガレットは続けた。


「あの子は……リンは、本当はとても激しい子なんです、そうは見えないでしょうけど……。

 もしもあの子に両親がいて自由な人生があったとしたら、あのエネルギーを世の為人の為だけでなく、自分の幸せの為にも使えたのでしょうけれども……。幸か不幸かリンの人生には、その選択肢がありませんでした」


シスター・マーガレットはそこで言葉を切ると、窓の外、風に揺れるラベンダー畑を眺め、目を細めた。


「だからこそ、私はリンに自制心を教えました。信仰をよりどころにして、自分を律する技術を教えたのです。リンは優秀な教え子でした。自分の能力の全てを(なげう)って、孤児でありながら、医師という職業を選んだ。つらくて厳しい、茨の道を。

 だからこそーー。私には分かっていたような気がします。あの子が、リンが誰かを愛したらそれはそれは激しく、そして強く、全身全霊でその人を求めるだろうことが……」


「……しかし、彼女は消えました。私を残して……」


何かを求めるようにアクセルは言葉を絞り出した。



「こんな風に、なにもかもうち捨てて立ち去ることが出来たのは、リンにとって私がその程度の存在だったということなんでしょうか?リンが私を本当は愛していなかった、ということなのでしょうか?」


「いいえ、逆ですわ、侯爵閣下」


信じたくない現実を突きつけられた絶望に、知らず知らずに拳を震わせるアクセルを宥めるように、シスター・マーガレットはかぶりをふった。


「リンはとてつもなく激しくあなたを愛し、そして、求めたのでしょう……。そして、多分、その激しさ故に、あなたの元を去ったのだ、と……私はそう思います」


「……」


「これは私の想像でしかありませんが……。もしかしたら、リンはあなたを、あなたへの愛を守りたかったのかも知れません。あなたを守る為に、あなたの側にあることをきっぱりと諦めたのではないかしら?私にはそう思えてならないのです」


「私を……?守る為に……?」


思いも寄らない言葉を与えられ、アクセルはオウム返しに呟いた。


「ええ。その心根の激しさ故に、そうするしかない、と思いこんでしまったのではないかしら?

 馬鹿な子……。こんな時まで、誰にも迷惑をかけまいとして、一人でなにもかも背負い込んで、挙げ句の果てに人知れず失踪するなんて……」


そこまで言って、シスターはその黒いロングスカートの、身ごろの返しにしまい込まれた白いハンカチを取り出して目頭を押さえた。


「閣下、お願いします、あの子を、リンを探してやってください。そして、大いに叱ってやってください。

 あの子は変な所で自分自身をぽーんと(なげう)ってしまう所がある。そんな傲慢な潔さが、どれだけ周囲に心配をかけているか、あの子はきっと、わかっていないんです」


そんなシスター・マーガレットの言葉をアクセルは砂漠で水を差し出された旅人のように、食い入るように聞き入った。


「侯爵閣下、リンはあなたを愛している。あなたもリンを愛してくださってる。私はそう信じます。

 その愛に免じて、お願いです。もう一度だけ、リンにチャンスをあげてはくれませんか?あの子の馬鹿で狭量な思いこみを打ち壊して、あの溢れんばかりのエネルギーを受け止めてやって欲しいのです。

 愛という名の下に自分自身をぞんざいに扱うということ、自分自身を大切にしないということは、(ひるがえ)って、そんな自分を愛してくれている人をも、ぞんざいに扱って、(ないがし)ろにすることと同義なのだとーー。

 まるで手負いの牝鹿のように逃げることで思考停止状態に陥っているあの子に、教えてやってください。愛というのは信頼であり、そして、向き合う勇気なのだと」


正直言えば、この時のアクセルはシスターの語ったことの半分も飲み込めていなかった。ただ、都合の良いことに『リンはあなたを愛している』と請け合ってくれたところと、『リンにチャンスを』というところだけは、くっきりと脳みそに刻み込まれたのだった。


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