102.リンの抵抗
リンの登場に、喜び勇んでステラを受け渡すと、ベッキーという名の保育士は、あっという間に消えてしまった。
後に残ったリンは気まずそうに、それでもママバッグを持ち上げると、
「…じゃ、私はこれで失礼します」
と、そそくさとその場を立ち去ろうとする。
グッドマンはすかさずその行く手を笑顔で遮ると、チラリとステラに目をやった。
「バクスター様、久方ぶりでございます。つもる話もございますし……少しだけお時間、よろしいでしょうか?」
柔和だが、決して誤魔化されないぞ、という気合いのこもったその声に、リンは一瞬その表情を硬くした後、諦めたように大きくため息をついた。
「ここでは、ちょっと……。閣下がいつ起きるか分かりませんし」
「かしこまりました」
「この一つ上のフロアに、私の個室があるんです。そこに来てもらっても良いですか?」
「もちろんです」
グッドマンは、大きく頷き、リンの肩に掛かった大きなママバッグを無言で引き取ると、先導するリンについて、歩き出した。
*-*-*-*-*
ついさっき、着替えて帰ろうとしていたはずなのに、再び戻ってきたリンに、何人かのスタッフが声をかけてくる。
一緒に連れている、上品そうな初老の男性をチラリと見はするものの、忙しい職場らしくバタバタと行き過ぎていく。その優しい無関心に、リンは心から感謝した。
ちょっとした診察と、書類仕事をする為に与えられた小さな個室に入り、グッドマンに椅子を勧めて、備え付けの小さな冷蔵庫から、ペットボトルの紅茶を取り出す。
「帰るつもりで電気ポットの電源を落としてしまったから、暖かいものが煎れられないんです、ごめんなさい」
おしゃぶりをくわえて、驚くほど大人しく腕の中に収まっているステラを抱いたまま、リンはテキパキとグラスを出し、ペットボトルと一緒に小さなコーヒーテーブルの上に置いた。
そんなリンとその腕に抱かれたステラを感慨深く
眺めながら、グッドマンはワクワクした気持ちを抑えることができない。
なにせ、もうすっかり諦めていたアクセルの、ディスカストス家の長子が目の前にいるのだ!すっかり有頂天になりながら、鼻歌でも歌い出しそうな様子で、ステラにまつわるあれこれを思い浮かべているグッドマンである。
ステラに着せたいブランドものの幼児服。部屋に吊したい、アンティークの真鍮製モビール。アクセルとミリアムが使った、これまた年代物の高名な家具職人が作ったゆりかごにベイビーベッド。
(大丈夫、大切に虫除けして保管してありますからね、まだ使えますよ)
心の中で、ステラに話しかけるグッドマンの夢想(妄想?)は止まらない。
(デリースのお屋敷にある、あの南向きの一室を、子供向けに改装したらどうでしょうかね?
お嬢様ですからね、壁紙はやっぱりローラ・アシュレイが良いのでは?いやいや、思い切って、デザインをオーダーするのも良いかも知れませんね)
あそこにあの家具を置き、こっちにあの家具を置き、とひとしきり頭の中でステラの部屋を完璧に整えると、今度はおもちゃを思い浮かべて、ますますグッドマンはニヤニヤ笑いを我慢できなくなった。
(おもちゃは古今東西の教育玩具を揃えましょう。しかし、手指の発達促進も譲れませんね。ここは、無垢剤の木のおもちゃを取り寄せなければ!
ハロッズの外商を呼んで、色々と相談するとよいかもしれません……)
グッドマンの頭の中は、まるでひっくり返したおもちゃ箱のように、可愛らしいもので溢れかえった。
一方、リンはといえば、少し眠そうなステラを揺すりながら、グッドマンの向かいにある小さな一人掛けのソファに腰を下ろし、硬い表情でグッドマンがニマニマと一人幸せそうになにか考え事をしているのを、眺めた。
と、グッドマンがごほん、と一つ軽い咳払いをすると、とうとう口火を切った。
「単刀直入にお訊きしますがーー」
ついさっきまで、ニヤニヤしながら夢想に耽っていたグッドマンだったが、そこは海千山千の辣腕執事である。改めてリンに向き直ると、前置きは不要、とばかりにズバリ、と切り込んだ。
ところが、グッドマンの問いを最後まで言わせまいとするかのように、リンが
「違います」
とかぶり気味に答えた。
グッドマンは目を丸くしてリンを見つめ返した。
「私のお訊きしたいことがおわかりのようですね?」
リンは、テーブルの上に視線を落としたまま、小さな声で続けた。
「この子はーーステラは閣下の子供ではありません……」
「……」
グッドマンはそんなリンの言葉に、呆れた。こんなにアクセルに似ているというのに、血のつながりはないと言うなんて無理がありすぎる。
「……いやいやいや……。
お言葉ですが、バクスター様、それには無理がございます」
極力落ち着いた声音でグッドマンは噛んで含めるように言葉を続けた。
「他の人間ならばまだしも、私は旦那様がまだ、そう、そちらのステラ様と同じくらいの頃からずっとお世話申し上げたのです。旦那様の赤ん坊時代の様子も容貌も、よ~く存じ上げております。
そんな私から言わせていただければ、ステラ様はどこからどう見ても、旦那様の小さい頃にソックリ。血のつながりがあることは一目瞭然でございます」
ところが、それをはねつけるように、リンは硬質な声音で答えた。
「似ているように見えるのは、瞳が灰色だからじゃないでしょうか?
恥をさらすようですがーー。
実は、閣下から離れた頃、寂しさの余り閣下によく似た灰色の瞳の男性とつき合って妊娠したんです。ステラはその人の子供です」
グッドマンは本日何度目かの驚愕に内心打ち震えた。もちろん、外面には現れない。この鉄壁のポーカーフェイスは、彼が百戦錬磨の有能執事たる所以であろう。表面上はにこやかに、内心では必死で動揺を押し隠し、
「なるほどーー」
と、相槌を打つ。
「ステラの瞳は……一見閣下に似ているように見えるかもしれませんが、違うんです」
「……ちなみにーー、バクスター様、その男性?というのは今どこに?もしかして、一緒に暮らしていらっしゃるんですか?」
(結婚したなんて、言わないでくださいね!!)
バクバクと音を立てている心臓を押さえて、完璧なアルカイックスマイルでグッドマンは言った。
「ーーいいえ。その人とは、妊娠を機に別れました。……中絶しろと迫られたので」
リンは感情を殺したように、淡々と説明した。
そして、その様子を見ながら、グッドマンはホットしながらも、どうしたものかと思案に暮れた。どうしてこんなバカバカしい嘘までついて、リンがアクセルとの繋がりを断ち切ろうとするのかが分からなかったからだった。
2年半前の、突然の失踪といい、たった今交わされたウソで塗り固められた会話といいまったくもってリンらしくない行動だ。グッドマンの知るリン・バクスターという女性は、母性愛に溢れ、心優しく理知的な勁い女性だったはずなのに。
(何故、そこまでして?)
グッドマンはその理由を量りかねた。
至極現実的な事を考えれば、侯爵家の血を引いているという事実は、階級社会であり、まだまだ保守的な人々の多いアザリスという国ではプラスに働くはずだ。
孤児であることで数々の差別と偏見に苦しみ、辛苦を舐めてきたリンが、可愛い娘であるステラを同じような謂われ無き差別の中で育てたい、と思うだろうか?
それとも、なにかとんでもない勘違いをしていて、真剣にステラの父親はアクセルではない、と思いこんでいるとか?
アクセルの言葉によれば、2年半前、2人は愛し合って、結ばれたという。
(それなのに何故?バクスター様は、こんな見え透いたウソをつくのだろうーー?)
グッドマンの中に堪えようのない哀しみと、それと同じくらい『決して諦めまい』という強い気持ちが沸き上がった。